この一年間で何回ハイタッチしたか?


朝一番で打ち合わせ。11月と12月に計3回、パワポ講座をやることになりました。なんで俺なんかよくわからないやつがまたやって参りました。そのうちチラシができるみたい。素人にうぶ毛くらいは生えさせてやれると思います。

昼から東京へ移動。篠山口から電車で。

篠山口

夜、祐天寺で西脇和樹の誕生日会兼達成会。

達成会

自分が何かにどれだけ充実していてどれだけ必死のパッチになっているか?を体感的に測る一つの基準として、その何かを成し遂げた時に一緒にやり切ったやつと、自然とハイタッチがでるかどうか?で判断している。

不思議なもので、何か“GOODJOB”を巻き起こさない限り、ハイタッチは生まれないのだ。納得いってないやつは腕が上がらないもんだ。

この一年間を振り返ってみて、何回気持ちよくハイタッチをした?

ハイタッチにはタッチする相手がいる。
仕事でも私事でも何でも、一人で完結するのものは限りなく少なく、限りなく脆い。本当の意味での満足感は一人では得難いもんだ。

何に必死のパッチになるかなんて事は、所詮“手段”の話で、そんなもんはなんだっていいんだ。

今回みたいに500人会うまで帰らないでもいい、
1日で草刈り10ヘクタール刈るでもいい、
5人の国王と謁見するでもいい、
1つの国を平和にしてくるでもいい、
10000人の異性にナンパするでもいい、
1000万円の特産品を販売してくるでもいい、
そんなもんはなんだっていいんだ。

それが人からわけわからんとか何の為にやるん?とか目的は?とかきもいとか近寄らんといてとか臭いとか理解不能とか言われれば言われる物事ほど、その手段は自分自身にしかわからない、本当に自分だけの手段なのだ。

人から何か言われたぐらいで揺らぎ、形を変え、辞めてしまうような世界はもう終わりにしようやないか。

俺は30歳を超え、転機を迎えた際、限りなく妥協が嫌いになった。妥協するやつとはハイタッチする気にもならないし、34歳にもなってきたら相手する時間すらもったいなく感じてしまう年齢に差し掛かってきた。妥協が許せるとしたら自分が妥協した時にそれを甘んじて許してくれるかわいい女の子の妥協だけだ。それ以外は甘えんな。俺は甘えるけど。

何を目的とし、何を手段としようが別に知ったこっちゃないんだ。

妥協なくやり切ったか否か。それだけの話なのだ。
自分は本当にこれがやりたかったのか?
自分は本当にこれをする為に頑張ってきたのか?
何の為にやっているのか?
何の為に自分は生まれたのか?
何の為に自分は存在するのか?
自分は本当は何がしたかったのか?
自分にとって一番大事なものは何か?

答えはいつもシンプルだ。
“目の前のことを妥協なくやり切ってから考えろ”

答えは先に出すもんじゃない。後になって勝手に追いかけてくるもんや。一秒先の未来でさえも、誰にもわからんもんや。預言者がお前は。みたいな話を何度もしてるけど、それでも何度でも預言者が現れる。呪われてんのかってくらい現れる。現れる度にこちらも呪文のごとく唱え続けている。

そもそも悩んでる時点で自分に答えを持ち合わせてない証拠やないか?

1分以上悩んで探しても見つからないんじゃそれは答えを持ち合わせてないかただのアルツハイマーや。

俺は生きている間に一度は互いの手が複雑骨折する程のハイタッチがしたいと夢見ている。虎視眈々と、狙っている。

その瞬間がどこの誰かとかはわからない。どこぞの誰かの何かをどうのこうのいうだけの評論家とは無縁の、同じアホなら躍らないと損をする泥臭いこの人間世界で必ず、必ず実現したいと思ってる。

今日は、こうしてまた一人、今後俺の手を破壊してくれる可能性をもったアホが誕生したことを、本当に心から嬉しく思う。