今後集落は存続させていく為に何をすべきか?


午前中は仕事の用事で春日町野上野のクリーンセンターへ。

クリーンセンター

丹波市では山南町だけはゴミを篠山市にもっていくことになっているが、距離と時間で考えたら確かに篠山の方が近い。ゴミ処理問題は揺れておりますが、どうなることやら。

夕方から大阪へ移動。夜飲んで帰るだけのエクストリーム忘年会。電車が暴風雨により動かず、車も相変わらず渋滞してる。電車の方がまだましかと思い電車で移動。やたら長い乗車時間を強いられた最中、ちょっと色々考えをまとめてみようと思い。今後集落は存続させていく為に何をすべきか?について、散文駄文的に書き連ねてみることにした。以下移動中に携帯ポチポチしながら書いたもの。

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【今後集落は存続させていく為に何をすべきか?】
さてさて、年末も佳境に差し迫って参りました。来年度の諸々を考えるにあたり、自社の事業の方向性もしかり、市の仕事を受けているところで市の方向性も含め、考えの土台となるこの掲題の問いをある程度明らかにしとかななと。これから電車に乗って移動する間、散文的に考えていこうと思います(まとまるかしら)。

【大前提】
・少子高齢化で日本全体的に(日本人の)人口が確実に着実に減っていく。
・以下井口の立ち位置は地元の人として。
・三年後に丹波市は赤字になる。

【考察】
◆まず現状把握(厳しめ。甘えゼロ視点。)
どうあがいても人口が減っていく。“人口減少”というと実はかなり曖昧な言葉で焦点がブレるので誰が減少するかというと主に二点かなと。

1、高齢者が他界
2、大学進学等した若い世代の流出

1について。
丹波市の広報誌みてても、お悔やみの声に乗る名前の多いこと。住んでる集落でも月に1,2回は放送されるお悔やみの声。体感値として少しずつ上がってる。

今、集落に置いて日役等(草刈り等)を担っているのは世帯主。ほぼ60代以上が大半で構成。自治会も“一世帯につき一人しか出れない”という暗黙なのかなんなのかルールがあり、自治会は世帯主の集まり。現状、ほとんどの世帯が村入りしている為、ほぼ=で考えていい状況ではある。

現段階でも順風満帆に人も金もうまくいっていると聞く集落は少なく、ほとんどの先がギリギリの均衡を保っているか、山は見放して切り離し住んでる界隈だけはなんとかなってるといった状況か、それでももう存続不可能な組(自治会を細かく分けた単位。隣保)がでてきて組み替えせなあかんとこまできてるところとかボロがでてきてる先もある。

仮に50世帯ある集落があるとして、ほとんどが60歳以上だとする。あと20年もすれば確実にどこか体にガタも来るだろうし、これまでできていた日役も出来なくなるだろうし、およそ一人前の労働力とカウントできなくもなっていく(70歳越えたら日役引退としてる集落もそうはいってられない現状もあったりする)。20年たった時、今の世帯主の半分がいなくなる(一人前とカウントできなくなる)と仮定すると、20年後に25世帯になる。ここで問題なのは、労働力と金。

20年も経ったら飛び切りの機械ができて、例えば草刈りも今まで50人がかりでやってたものが1人でできるような代物ができてたらいいけど、かなり空想の世界。導入するとしても金もかかる。自治会費は世帯主数の減少と共に減少。値上げして維持するとしても今で年間10万超える先は20年後に20万かかる。日本全体的に収入減ってく時代に年間20万の支出は大ダメージ。出ていく金は増えるし人手はどんどん足りなくなるしのダブルパンチ。

おまけに3年後に丹波市は赤字見込み。民間に少しずつプラスαでのしかかっていく。

年輩の人が集落の構成要素である自治会の大半を占め、村を維持する為の日役等の活動主体になっている現状があり、高齢者が他界する=村の維持機能に直接的なダメージがある、ということ。

もちろん、世帯主を世代交代していく世帯もある。ただ、体感値として世代交代できる世帯は2割。多くて3割程度。世代交代出来ないのはそもそも子供が集落にいない、よそでもう家建てちゃった、帰る気皆無、帰りたいけど大変なん知ってるから嫌、親も子供に出てった方が絶対いいとか言っちゃった、そもそも親子喧嘩し過ぎて犬猿の仲等。理由は様々。

現実的には大半が血縁内での世代交代はできないと踏んで考えて置いた方が無難と言わざるを得ないので、かなりシビアな展開を見込む状況。

2について。
近年、若い世代のローカルブーム的な風潮があり、大学をでてすぐローカルに飛び込む人も増えてはいるが、それは、間接的にでも“地方創生”というキーワードの元、国がある程度予算を地方に出しているからであって、地方で稼げる可能性もあるんだとか、楽しく暮らせる可能性があるんだとか、そういえる人も確実にいて、そういう空気感がある間はある程度IターンでもUターンでもそれなりの人口が見込めると思われる。

が、ブームには必ず終わりが来るもんで、一旦オリンピックまでと見ている。つまり2020年まで。理由は沢山あるが、とりあえずそう見ている。
おまけに2019年には丹波市は赤字見込み。目の前の緊急課題が浮上しまくれば、どちらかというと未来への先行投資的施策である移住がどうこうで予算が避けなくなるかもしれない(今でも対外ないけど)。

そう言いながら現状、一度出た若者は大半帰らないし、帰る気もない。何か関わりを持ちたいとは思う人は少なからず存在するもかなり少なからず。ゆうて街中の生活も切羽詰まった人も多く、目の前の毎日を生きるのに忙殺して結局のところそんなに多くの時間と労力を避けないでいるジレンマに挟まる。

なんやかんやで、街中の景気が悪いとはいえ、『ゆうても丹波市より平均年収高いでしょ』『ゆうても丹波市より村付き合い的なん少ないでしょ』と言われれば、その通り。せっかく街中へ送り出した子供、せっかくやから街中でバリバリやってほしい、地方で経験できないことを経験して大きな大人になってほしいと願うのは親心。そうして30代頃にもなって、結婚して家庭を街中で築けばもうほぼ帰らない盤石な街中の人になっていくのが大半の傾向。

この辺りが、これまで会ってきた人らを見たり聞いたり接したりしながら得た事実と、感覚値の総和。

◆掲題を考えるにあたり現状の課題

いまの課題を端的に一言で言うとなんなんだろうか?と考える。ここまで書いてみて思うのは、うまくいっていない集落は要は、

『良かれと思ってやってきたことが実は仇になっていて、ドツボにハマってさらに悪循環化してきている状態』

じゃないかと踏んでいる。
ポイントは、相手が“良かれ”と思っているが為に、当事者も側で見てる側も真っ向から否定できない状態にある、という点。

基本的にいい人が多く、度が過ぎてることもあり、お人好しが多すぎる。これが、ネックになっている気がしている。

噛み砕いて説明みよう。

例えば村の日役。
『草刈りとか正直めんどくさい。お金になるわけでもない、土日が潰れる。腰も痛い。服も汚れる。』とか世帯主が思っていたとして、これを子供にやらしたいか?と問われれば、なんとか避けさせてやりたい、自分がやれるんだったらできるだけ子供にはさせたくない、と思うのが優しい親心。この親心により、集落の行事に触れさせないように育ち、集落をでて街中へ行く。それが子供の幸せだと願っている。
これを子供ら側は真っ向から『なんで俺に草刈りやらしてくれへんねん!』とか、『溝掃除おれがやりたかったのに!』とか、真っ向から否定できるだろうか?書いてて思うが余程の人である。1000人に1人の逸材といってもいい。そうこうしてる間に、村付き合いとは無縁に育ち、親が村と何してるのか関わりも知らないまま、苦労も知らないまま、“良かれ”と思ってることも知らないまま、離れて暮らし、そのまま相互に理解することなく終了。

なぜ山に入らせないようにしているか?なぜ川に近寄るなとしつけてきたか?
山に入って怪我をしたことがある人、命の危険にあったことがある人であれば、当然その危険性を訴えるだろう。自分の子供らを危険から守りたいのは親の性。それが“良かれ”とわかっている人であればこそ余計に、『なんでやねん俺は山に入りたいんじゃ!止めるんならもう家族絶縁じゃい!』という勢いには至らない。至りたくても至れない。結果的に、放置。

なんでもそうだが、“良かれ”と思ってやってもらっている、やってくれている、ゆってくれていることに関し、真っ向からそれあかんて!やばいて!と、言うのは相当難しい。なかなかのアイアンハートを要する。

例えばクリスマスプレゼントがいい例で、自分はポケモンのゲームが欲しいと思っていたのに、親はそれを一切考慮することなくサンタさんの衣装をプレゼントしてくれたとしよう。自分が小さな子供時代であれば『おれが欲しいのはポケモンのゲームや!そんなもんはいらん!』と無邪気に反抗もできるが、いざ大人になってしまうと、“良かれ”と思ってのことだとわかっていると『う、うん、どうもありがとう』と言わざるを得ない空気感になったりもする。大人になり空気が読めるようになってしまったが為に。

なので、『そんなクリスマスプレゼント頼んでへんわ!いらんわ!』みたいなことになると、『なんやのんあんたせっかく買ってきたったのに!もう二度とあんたに何もあげません!』となり、『はいはいそうしてくださいさようなら』的な流れになったらもう、当初の“良かれ”は仇となり双方険悪で最悪、といったご家庭事情は、きっと容易に想像がつくはず。

結局、つまるところ、この“良かれ”と思って何か行為を為す際に、一瞬でもいいから相手方に対して今からやろうとしていることが本当に良いことになるかどうかを確認するプロセスさえ踏まれていれば何も問題がなく、この、一番最初のボタンの掛け違いがこじれにこじれてしまっているんじゃないか?ということ。

ずっと昔から“子供の為に”と願って行われてきた地域のお祭りがあったとして、長年それが行われてきたが少子化で子供の数も減り、今まで保てていたようなお祭り感が規模の縮小と並行して消滅、該当する子供自体ももう数名を切りましたと。それでじゃあ、これからこのお祭りをどうしようか?と考えていくその場(自治総会or自治体の役員会等)に、必ずしもその“良かれ”の受け取り手である子供ないしその親がいるか?といわれると、そうでもない事態があったりする。

◆課題の対策案

集落を持続させていくということは、自分が30歳になり40歳になり50歳になり60歳になりと年を重ねていくにつれて、主役を次世代に渡していくことが大前提になる。いいこともわるいことも全部ひっくるめて次の世代にバトンタッチしていく必要がある。
自分には必ず年齢(寿命)という限界がくる。寿命の前に体力の限界等もくる。およそ集落の限界が個人の限界に巻き込まれると続くものも続かなくなる。ということは、個人の限界から切り離されたものにしておかなければいけない。

となると、そこで前項で記載していた通り、何が今後にとって“良かれ”となるのか、常に次世代とのコミュニケーションをとっておくことが必要で、現段階の集落事情および仕組み(家系の年長者が世帯主で、1世帯から1人しか自治会に参加できない)を突破しておく必要がある。具体的には以下。

1、自治会参加を世帯主以外も参加できるように“関わり代(しろ)”をつくる
2、どうしていくべきか?の方向性を世帯主だけで決めない
3、持続させていく意義を集落全員で創り出す

今後集落は存続させていく為に何をすべきか?を考えるにあたり、そもそも何の為に存続させていくのか?をはっきりと合意形成しておく。何の為に持続させていくのかも全員がはっきり掴んでいないのに、そこで持続させよう!と言われても目的が定まっておらず理解できていない物事には本気が出したくても出せないから。

簡単なようで意外と難しい、でも根本的に最も大事。結局、どこもこのそもそも論があやふやで、定まっていない。そもそも論に触れている時間と余裕がないという先もあるだろうが、結局、回り道のように見せてこの根幹をしっかりと整えることができた集落が最終的に最も続いていくんだと思っている。

そんなこんな、こんな話を、これまであまり自分の関わる地域に話してこないでいた。それは、ここまでの内容も然り、それよりも自分自身もまだやってもないうちからあーだこーだいうのをよしとできない性格上、“やってみてからモノを言う”習慣がある意味で邪魔をし、提案もしてこないでいた。

こんなことを、昨年くらいから少しずつ、よその市区町村の人と関わることが増え、思ってることを何も気にすることなく言えてしまう関係から、ここで書いてるようなことをストレートに言うとほぼ100%に近い、よその地域の人から、

『ほんまその通りですわ!』
『うちの◯◯にもゆうたって欲しいですわ!』
『代弁してくれてありがとうございました!』
『是非今度うちにきて講演してください!』

と言われ、相当な手応えを感じられるまでに至っている。来年も早速、よそでの講演が入っている。きっと、よそもどこも同じで、うちも同じなんだろう。よそでの経験を、自分たちのところで活かすタイミングがきたかなと。

忘年会

大阪の町は大混雑。どこの店も満席、入店お断り状態。しぶしぶラーメンからスタートし、22時前になってようやく空いてきた居酒屋に入り普通に飲めるように。街中に居た時は何にもおもわへんかったけど、飯くらい自分で作ればええのにね。

終電で帰宅、お疲れ様でした。