自尊心とやらの“育まれ方”


朝起きたら昨日よりもっと深雪。

玄関前

中途半端に溶けた雪の上からさらに降り積もってかつてない積雪量に。30cm程。丹波市に引っ越してきてからこんだけ雪積もったのは初。しかもこの南の端っこ、山南町で。

これまた石龕寺にいってみようと思い、石龕寺へ。

山際はかなり雪が深く、さらっさらのパウダースノー。スノボで家まで帰れるんちゃうかってくらいの雪。何もかもが真っ白だった。

ホワイトアウト

普段見る景色が積雪30cmでこうも変わるとは。雪半端ねぇ。雪国感MAX。

昼から買い物に歩いて出かけて、その後はもう一日家でゆっくり。また娘と雪で遊ぶ。

我が子

我が子と一緒に居ると、色んなことが湧いてくる。

なんやかんやではやくも1年2か月ちょいが経過。産まれて間もないころに比べ、色んなことができるようになった。

最初は一緒にお風呂に入っても、ずっと泣いていた。
でも、回を重ねるごとに泣くことを止め。きっかけは、恐る恐る、風呂の水を飲んだ時のこと。

湯船に浸かりながら、そっと、お湯に口をつけて飲んだ瞬間、満面の笑みを浮かべた。

“なーんや、これ、いつも飲んでるやつやん”って感じ。
それに気がついたのか、お風呂で泣かなくなった。ついでに湯船に浸かりながら嬉しそうにこそこそお湯を飲むようになった笑

子供だから、色んなことを知らなくて

“当たり前”。

色んなことが出来なくて

“当たり前”。

1つ1つ、彼女が経験するその環境を、場を、見守る。親ができることのうちの1つ。

おもちゃで遊んでたりすると、あっちゃこっちゃ散らかし放題のやりたい放題だった。

でも、毎日毎日、そうやって、毎日毎日かあちゃんに“遊んだあとはお方付けしてね”と、言われ続けているうちに、お片づけをするようになった。まだ言葉なんてまともに話せないのに。どうやって理解してるんだろうと、こちらが不思議に思うくらい。

“このゴミあそこ(ゴミ箱)にポイしてきて”

と、ゴミを渡すと、ポイッと捨てにいくようになった。

お願いしたことに“ありがとう”っていうと、屈託のない満面の笑みで嬉しそうにしている。

回を重ねていくと、頼んでもないのに、ご飯を作っているとあっちこっちの引き出しをあけて、何か取り出してくるようになった。99%いらないものを出してくる(笑)。でも、とても嬉しそうに、積極的に“お手伝いをしよう”としてくる。

ありがとうの意味も、ゴミってなんのことかも、さっぱりわからないまま、理解している。まだまだ、理性もくそもないんだから、本能がそうさせているのか、子供ってすごいなって思う。

何もないところから、自分の“当たり前”を自分で創り出していく日々。

うちの子を見ていると、およそ世の中で言われている自尊心がどうだとか、自信がどうだとかってのは、与えるもんじゃないんだろうなって思う。

だって、勝手に身につけていってるし。
誰かに何か言われたりされたりしないと身につかないもんじゃないな。

“さすがやんか!”って別にほめなくても、“やるやん!”なんて認めなくても、勝手に自分で身につけてる。
そもそも今、言葉で何いっても理解できないし、何いってもちゃんとわかってないんだし。それでも、ちゃんと一人で体得してる。

こうやって、自分自身が何かをやって経験して、そこから感じる何かがあった時に、その、体験の現場を邪魔せずそっと、見守ってさえすれば、それでいいんじゃないかな。

彼女が雪に触っていると、とてもちべたそうな顔をして、手がじんじんするって感じの雰囲気を漂わせた。

その後、何回か恐る恐る触り、少しつかみとって、にぎにぎして。自分の手をじっと見つめる。

そして、雪はただ、“とてもちべたいだけで、害はないもの”ということがわかったのか、はしゃいで遊び始めた。

そういうもんなんじゃないかと、思っている。

自分はどういう感じだったのかなあなんてことを、昔を振り返ってみても、そんな小さいころのことは覚えてもないんやけど、親に“褒められてうれしかった”記憶や、“認められてうれしかった”なんていう記憶はさっぱりない。

“おかげ様で”なのかなんなのかよくわからないが、別に人から“褒められなくて”も、“認められなくて”も、
そしてもはや、たとえ“咎められて”も、“邪魔されて”も、別に自分は自分で気持ちよく思うように生きていられている自分が今ここにいる。

なのできっと、うちの親はそっと、自分で自分を育んでいくその様を、見守ってくれていたのかなあと。

うちの子は、どんな自分になろうかと、どんな選択肢を選びとっていくのか。

ゆくゆくが楽しみなのであります。