新たな仕組み


夜はここ1、2年の間に移住してきた人達との懇親会的なものを実施。

移住者の中には小麦アレルギーの家族もいたので、3つ用意した鍋のうち一つはグルテンフリーのトマト鍋に。グルテンフリーを実現しようと思うとなかなか困難。醤油もあかんもんなー。グルテンフリー生活をしないといけない人達は大変ですなあ。

鴨鍋の精度があがってきたかな。

合計15人くらいが集まって、特にこれといった目的もなく、名目もなく、自己紹介だけでほぼ終わりという実にゆる~い会に。
結局、名目や目的のない会には、名目や目的がなくても集まれる人たちだけが集まる。
いちいち名目や目的がないと集まれない関係性は疲れるし正直めんどくさい。彼氏・彼女、旦那・嫁さん、家族、好きな相手みたいな人との関係を思い浮かべるとそりゃそうやわってわかるはず。いい関係性の証だと思う、無目的な会で人が集まるというのは。

それはそうと、なんやかんやで、自分がたかだか4年ちょいの移住歴で最も長いという会に。
自己紹介が一人終わる度に『ようこそ丹波へ~』なんて言ってると、もはや自分は“移住者枠”に居る感じがせず、“地域のおっさん枠”の方に居ることを実感。移住相談窓口なんてやってると余計にそう。迎え入れる側になっている。

『実際に移住した人にしか移住する人の気持ちはわからない』

ということで、我々の会社が相談窓口を受けてかれこれ二年が経とうとしている。そうこう言っている間に、先述の通り刻一刻と“地域のおっさん側”の自分が成立していっている。もはや単純な移住者という括りにはおさまりきらなくなっている自分を実感している。そりゃそうか、会社に入って4年が経って5年目を迎えた人が新卒な訳ないのと一緒か。
そうなってくると、自分はどんどん純粋な移住者ではなくなっていっているので、どんどん移住者の気持ちがわからなくもなっていっている。相談窓口は毎年のように入れ替えていかないと純粋な同じ立場での相談に乗れなくなっていく感覚がある。事の発端となった先述の理由を維持するには、窓口にたつ人を循環していかないといけないな。

自分自身、地域のおっさんの立場として、これから移住してくる人たちに期待することって何かあるかなー?なんて考えると、今集落にいる人たちだけではどうにもできない(できていない)集落の問題を解決してくれるようなパワフルな人きてくれたらなー(山ほったらかし問題、世帯主が年々高齢化してきて草刈りがそのうち無理になるけどどうにも解決できない問題等)とかも思う。

それをやってもらおうと思うと、今自分も含め集落の人らがやっている先述のような日役の輪に入らせてしまうとただの1人前の労働力にしかならず、それだけでは解決できないから悩んでいるのに同じ悩みの餌食になってしまうから、全然違う切り口からなんとかしてほしい訳で、必ずしも全員と足並みを揃えてほしいとは思わない。
なんとか改善する一手を打ってほしくて、企画職の採用かけてるのにいざ配属されたら営業でしたみたいなことをしている限りは一向に改善されない。

これはそもそも前提として、
◆これまでやってきたことを未来永劫も続けていかないといけないものとした場合
◆村の付き合いは各世帯から1人世帯主だけが行うとした場合
に限った話であって、それを変えられるのであれば話が変わってくる訳だが、どういう訳か一向にそんな兆しはない。

一昔前のように、人数がわんさかいた時代であればきりもりできたかもしれないが、人数がどんどん減少してきてさらに高齢化してきた今になってまだ集落の規則や制度、慣習がそのまんまだから今に合わなくなってきてうまくいかなくなってきたっていう場面が大半じゃないかと思う。仕組みが人をダメにしている。

なので、これからこの集落事情を打開しようと思うと、
◆各世帯から世帯主以外もでてきてOKにする(何人でも出てきてOK)
◆草刈りなら草刈りする人、草刈りせずに草刈りを楽に執り行う為の技術や機会を習得、調達してくる役回りにたつ人といったように事がうまく運べるように色んな役回りの人が“存在してOK”という新たな風習を設ける
等、何か違いを創りにかからないとにっちもさっちもいかなくなることがわかっているのに手を打たないというのは、ゆっくりと自分たちの首を絞めていっているようなもの。

近い将来、大半の集落はこのままいくと成り立たなくなる。
成り立たなくなる原因は、人手不足と、金不足。今までの仕組みを成り立たせるには、この両方を成立させないといけない。

儲からないとわかっているものはやめるか、収益のあがるものに変える。
人手が足りないとわかってるものはやめるか、どこかしこから人手をもぎとってくるようにする。

そんなこんなを、28日にぶつけようかな。