観光論


朝から一日、春日庁舎で事務処理。

夕方、市島町の百毫寺へ。藤の花を見に。

百毫寺

年々、時が経つに連れてどんどん観光地っぽくなってきて、どんどん人が来るようになって。色んなものが整ってきて。
ここだけは、丹波市内の中で唯一、移住する前からきてて、ずっと見守ってきた。

人がほとんどいなかったのに。今年は人が本当に沢山。駐車場もいつの間にか第6駐車場までできて。
観光地というのは、こうして、地元の人も観光客も一緒になって育っていくんだろうな。

ただ、人がきて、喜ばしいことなんやけど、なんやろ、この、一種の萎えてくるこの感覚は。有名になってきて、嬉しい反面、何かが失われていくこの感覚は。
喜ばしいことなんやけど、何かが悲しくて切ない。

夕日

日本各地の観光名所と呼ばれるところがあって、述べ何百箇所と足を運んで出た結論は、明確に名前が与えられてないような田舎の風景の方が、よっぽど静かでよっぽど綺麗だ、ということだった。
名前をつけるということは、世の中に存在していることを明確に現し、認知されるようになる。認知されるようになると、人の関心を引き始め、うまく事を運べば人がそこ目掛けて足を運ぶようになる。

しかし、もともと誰もいない静かなことが魅力として感じていた一つの要素であって、それが気にいっていたのであれば、この風景を永遠に見られるように守りたいと仮に思ったならば、名前をつけて世に現し、観光地化するということは本末転倒ということになる。

そうなってくると、手段としては観光はそぐわないということになる。

何のために観光地化するのか?何のために名前をつけるのか?

なんでもかんでも、観光地にするのは、やっぱり違う気がする。