自由論総論


朝から三ノ宮へ移動。県の主催する移住セミナーに丹波市も参加。

多自然協議会

昼前くらいからあいにくの雨。雨の予報じゃなかったのに。お陰様でめっちゃんこ暇でした。

農家

いつの日か、意欲と情熱がなくても、さらっと農業できる日がこないかな、とか思う。
新規就農は簡単じゃない、意欲と情熱が必要なんだ!というのもよく理解してるんやけど、じゃあ他の業界は意欲と情熱あるやつばっかなのか?四六時中意欲と情熱で動き続けられているやつらばかりなのか?というと、全然そうでもない。なんでか、農業だけが求められるこの違和感。

17時の提示がきたら止め、朝は9時から。残業したらあかん。
それくらいの当たり前さと緩さがあるのが追い求める理想像なんちゃうんかな?
死ぬまで意欲と情熱燃やし続けられたらそら素敵やけど、あんまみたことないからな、そんな人種の人。
とかふと思う。

三ノ宮の夜

人は元来、根本的に何よりも自由を求めている。昔からずっとそう感じてる。

経済的な自由、身体的な自由、精神的な自由、社会的な自由。

ありとあらゆる欲求の、その根本を探れば自由への飽くなき嗜好性に辿り着く。

追い求めたその先に、自由を与えられたり、自由を手に入れたりしたら、そこからが真価が問われる。人として、自分自身のアイデンティティとして。何もかもが自由で、これから何をしていくのも、何を実現できるかも思い通りで、何をしたって構わない、という環境下になり、そこでどういう方向に舵を切るかが完全にその人次第ということになる。それが側から見て悪しき方向なのか、良き方向なのか。それに左右されることのない、自由さ。だからこそそこで真価が問われる。

そこにきて問われる真価は、自由を得た、体験値として得られた先にしか手をつけることができない代物である以上、その人がどういう人であるか、どういう真価を持ち合わせている人かは、その人が自由を得てみないとわからない。本人ですら得たことがないとわからない。

だから、例えば我が子や、後輩や、部下等に、立派な人間になってほしいと願う立場の人であれば、まずは自由を与えてみないとどうにもわからない。自由の扱い方や、自由の乗りこなし方、自由との良好な関係性が身につくかどうかは、その後の話だから。いくつになっても、自由をうまく扱えない人も沢山いる。自由であることに半ば恐怖心を抱く人もいる。扱うどころか、飲まれているからだ。

映画を見て、こういう感想を持て、と相手に願っていても、願い通りの感想を持つか、持てるかは、映画を見た後にしかわからないのと同次元。自分自身でない以上、どうにもならない領域の話。

これまで、自分を取り巻く環境では、ものすごく要所要所で、自由を与えてくれる大人がいて、彼らのおかげで今があると強く感じている。自由を与えてくれる人が身の回りにどれだけいるかで人生が大きく変わるとも思う。

そう思っているからこそ、この自由論総論に至った頃から、1秒でも後に生まれた人らにはできる限りの自由を与えてきたつもりで、それがどれだけほったらかしやとか、なんの面倒もみてへんと言われようが、自由の適切な取り扱い方を如何に自身の内側に経験値として身につけているか、身につけている人が過半数を占めた世界観がどれ程のインパクトと意義があるか、をずっと理想としてもっている。

思った以上に、世の中は自由で、自在であり、取り扱い方を掴むかどうかが、これからの時代の争点のような気がしているのだ。