山の向こう側


久しぶりに大阪の実家へ帰省。姉ちゃんとこの新たな姪っ子に会いに。生まれたての子供はかわいいですなあ。
小さい子はすべからくかわいいけど、やっぱ血縁の子供はどうしても別格にかわいく見える。遺伝子の影響かなんなのか。

実家のマンションからの眺めは昔からなぜか好き。高いところだからか、眺めがいいからか。

昔は家が狭いのが嫌だった時もある。3LDKに家族4人が住むとなると、1人どうしても部屋がない訳で、親がそれをゆずってくれていたから自分の部屋があった訳やけど、必ず顔を合わせなければいけないことがめんどくさかった時期も正直あった。でも、年々、年をとるにつれてどうでもよくなっていったというか、むしろこれでよかったと思えるようになって、家が狭いなら狭いなりにいいところがあるなあなんてことを、とにかく無駄に部屋がある一軒家に住んだからこそ余計にそう思うようになった。

実家からの眺めはとても見晴らしがよく、小高い丘の上に立っているから視界を遮るものもなく、今後もきっとさえぎられることもない。眺めがいいから360度見渡せて、遠くの山が見える。地球が丸いものだという話を学校で習って、確かに丸いなというのをこの眺めから体感できるほどに。

家から自分が通っていた小学校が見える。中学校もあの辺にあるというのがわかる。高校も。大きくなるまで、全てこの範疇に暮らしがあった。360度山に囲まれたこの平野に全てがあった。

中学校の時、友達が家を訪ねてきて、玄関からの景色を眺めていて、一人が言った。

『あの見えてる太陽の塔までずっと真っ直ぐいったらどうなるんかな?つくんかな?』

ほないってみよか、ということで、ほんまにまっすぐ突っ込んでいった。畑の中も、道なき道も。これまで遊んだこともなかった、通ったこともなかった道をひたすら歩いた。そしてちゃんとついた。

ひたすら歩いたといっても、1時間もかからない旅だったが、見たことのない、歩いたことのない道を進んでいくというのは、自分の中の新たなマップが開拓されている感覚がまるでドラクエのような世界観でとても楽しかったのを今でも覚えている。きっと、あの時の体験が、未知の場所へいきたいという欲求をつくったんじゃないかと思う。

高校からは中学まで禁じられていた自転車通学(通称チャリ通)がOKになった。歩く以外の手段ができたことで、歩く以上の遠出ができるようになった。

高校に入ってすぐ、中学校時代のツレが奈良までチャリンコでいこうぜといってきた。おもろそうやなってんで、行くことになった。

当時はまだ携帯電話なんてもんは普及しておらず、まだまだポケベルが全盛期で、周囲でもPHSをちらほらもっている程度だった。今みたいにスマホでGoogleMAPさんにナビしてもらうなんていうことができなかった時代。アナログな紙の地図を見て、道に迷わないように大きめの国道をとにかく走ろうということで、千里丘方面から寝屋川、四条畷に出て163号線をひたすら走った。

清谷トンネルあたりで、生駒山をひたすらチャリで登った時、ふっと後ろを振り返ると実家と同じような見晴らしのいい景色が広がっていて、普段住んでいる界隈が遠くに見えた。

『ああ、いつもマンションから眺めているあの山を今登っているんやな』

マンションからの景色は先述の通り、とても遠くまで見張らせて、必ずそのどんつきにはなにがしかの山が連なっている。でも、山の向こうの景色は見えない。なので、山の向こう側はどんな景色が待っているのかは想像つかなかった。今でこそそれもGoogleMAPさんの力で衛星写真というとんでもない代物がこのご時世誰でも使えて誰でも見れてしまうようになったが、当時は実際に自分の足でそこまでいき、自分の目で見ないと見れなかった。

なぜチャリで奈良までいくのか?動機はもう十分にそろっていた。

“山の向こう側が見たいから”

片道3時間程、往復移動だけで6時間程かかった奈良への旅はとてつもなく疲れたけど、とてつもなく気持ちよかった。知らない世界、普段見えない世界を見にいく、というのがどれほど楽しいかというのを十分わからせてくれた。

それからも箕面の滝までチャリンコでいったり、心斎橋のアメ村までチャリンコでいったり。アメ村も、マンションの視界からは梅田のビル群で遮られていてどうなっているかはよくわからなかったのだ。新御堂筋をハラハラしながら端っこの方をチャリで爆走しながら向かったのも、今となったらなかなか危険なことしてたなと思う。

大学に入り、バイクを手に入れ、さらに遠くまでいけるようになった。バイクでの最初の遠出は、徳島大学へいったツレに会いにいくついでに坂本竜馬に会いにいこうってんで、高知に寄ってから徳島にいった時。
まだまだアナログだった大学時代、四国に入って地図広げて、海岸線ずっといくより山の中突っ切った方が近そうやなっていうので山の中を突っ込んでいった。地図表記の縮尺マジックに始めて気づいた瞬間でもあった。(山道が真っ直ぐな一本道な訳がないことをこの時知った)

今でこそ有名になった神山を抜け、剣山を抜け、徳島県と高知県の県境に差し掛かった時、山から見下ろした高知県は延々と山が連なっていて全く見えなかった。こんな景色がおよそ日本に、世界にあるんやなって武者震いした。同時に、こんな自然の中でも人って暮らしていけるんやなっていうのを知った。率直にすげえなって思った。家に囲まれた実家界隈とは全然違うもので、どんな暮らしができるんやろうって想像つかなかった。

“想像つかないことのおもしろさ”

というのを知った後というのは、およそイメージがついてしまう物事というのはこれまでの自分の範疇であり、能力内であり、だいたいの場合が想定の範囲内というやつで、どんな突飛な事件が起ころうとも、それでもまあまあ、そんなこともあるわなっていう次元で落ち着いてしまう。

なので、自分にとってチャレンジ領域というのはおよそイメージがつかない、想像つかないものであって、未知との遭遇、体験を伴うものでなければチャレンジでもなんでもない。そういった意味で去年のアメリカ出張は自分にとってとてもチャレンジでとても有意義さを感じられた時間だった。また行きたいなあ海外。

時折ふっと何かにチャレンジしたくなるのは、昔から積み重ねられてきた未知の体験であり、目に見えない範疇への挑戦であり、山の向こう側へ行くというきっかけを通じて自分の中に何か新しいものが芽生えたり、これまでになかった自分との遭遇みたいなものが欲しくて駆られてくるんだろうな、と思う。不思議なもんで、これまでの出来事を振り返ってみると、大体の場合チャレンジに踏み込むときは誰かツレがいて、一緒にやってくれたり応援してもらえたりしてて。有難いもんですなあ、ツレというのは。

でも、逆にそれなりに年を重ねてきて、目に見える範疇も大事にしたいという気持ちもでてきて。それは丹波市に引っ越してきて、子供が誕生してっていう新たな未知との遭遇の後に起こってきた感覚で。

要するに、って、

最初に書こうと思ってたことからだいぶそれていってしまって要するにが要するにじゃない気がしてきてオチがつかないので、またの機会に。