自分はまだ本気だしてないだけだから


午前中は山南町岩屋の古代米の収穫祭。
古代米というのは、餅米の祖先である黒米と、普通のお米の祖先である赤米と。今年も無事に育っておりました。我が家族は全員風邪で死んでおりましたので自分だけ参加。

こんだけの人数でこんだけの面積だと30分程度で瞬殺やけど、これもし一人でやるってなったら心折れそうやなあ。しかも晴れてる間にしかできないという制約もあり。今のじいちゃん世代以上の野良作業スペックの高さには本当に恐れ入る。お疲れ様でした。

夕方からは元町カフェの合宿受け入れにつきみんなの家へ。

元町カフェというのは、とある県職員さんが音頭をとって開催されている公務員さんたちの勉強会で、今回は合宿。
兵庫県だけじゃなく大阪府や京都府からも参加者がいて、総勢15名程。別に仕事ではなく、個人として参加されている。めっちゃすばらしいですねえ、こういう活動は。自分から勉強しよう!とか、公務員としてどうにもできないことは個人でやってみよう!とかそういう柔軟な発想と動きがとれる公務員さんがこんだけおるんやなということに関心。

この日は結局朝までずっと話しまくっていたんですが、今回もしかり、これまで仕事で公務員の人と関わることが多く、その中で感じる、総じての所感は以下。

1,“市職員”や“県職員”、“市議会議員”や“政治家”というのはどうしても“一人の人間”として扱われない、見られない風潮がある

ゆうて市職員も県職員も議員も市長とか政治家も、一つの職業であるはず。なのに、24時間コンビニ営業的に、いつどの時間も“公務員”として見られ、仮に仕事終わりにコンビニで漫画でも立ち読みしてるのが知り合いにでもバレようもんなら「公務員のくせに立ち読みしてんのか」等ということになる。会社員や社長の分際はコンビニで漫画立ち読みしてても何も言われないのにこれ如何に。謎。

市役所の窓口にたっていてもそう、“窓口の担当”的な見られ方をしていて、その人個人のことはどうでもいいというか、一人の人間として見られておらず、なにか手続き上で不具合や遅延等をすれば“これだから行政は云々”と言われる。個性という個性が徹底的に排除された感。そういう職業。

個性の時代と言われる中、個が徹底的に存在しない環境、存在させることができない環境、存在させるべきではないとされる環境。それが公務員。

2,外的要因によって人生が左右されまくる環境

大体2,3年で部署が異動。神のお告げ的に次の配属が決定される。結婚したり家建てたりすると多少の配慮はされるがこれまでのキャリアがどうとか当人が今後どういう人生を送りたいか等といった私情はほぼ無視されるケースが多く、得意不得意もへったくれもなく問答無用で異動。世の中の転職市場に合わせ、30歳以下で公務員から民間等の転職はまだ見えないこともないが、こうしたどういうキャリアが積まれるのかさっぱり見えない中で40歳、50歳までいってしまうともう自分自身も“抜けるに抜けられない”という感覚になっていく。最初は右も左もわからない部署に配属され、一生懸命がんばって色々わかるようになって自分も楽しくなってきたという頃に全然これまでと関係のない部署へ異動、みたいなことが続くとモチベーションもくそもない。そういう世界なんだと自分で自分に言い聞かせるとか、とにもかくにも“自分の心のありか”“自分の心のもちよう”を常に問われ続ける必要がある環境なんだなと。

上司も部下も自分で選べない。自分で選べる選択肢がほぼない。自分で選べる選択肢がないということは、人生を他のなにかにゆだねながら生きていくことになる。そうせざるを得ないというのは、人によっては恐ろしく酷な話。

およそ民間では自由を得る代償に色んな責任を引き取っていく訳だが、自由を捧げる対価として色んな責任から逃れることができる。今の公務員というのは全く多様な生き方であるとか個性がどうとかいう世界観とは無縁の存在といえる。

3,上に登っていく意義が見えづらい

課長くらいの役職になってくると、残業代が支払われなくなり給料は固定、下手したら部下よりも給料が低い月もあったりしつつ、議会との答弁はしないといけない、色々言われる、部下がやらかすと自分が全く関係なくてもどう責任とるんだと詰められ謝罪しまくり、予算は立てるけど結局自分が決めるもんでもなく、とにもかくにも色んな間に挟まれまくる。というのを間近で見ているからこそ余計に、上に上がっていく気持ちがそげていく。昇進試験が任意だったら余計に。数少ない選択肢、“昇進試験を受けない”という選択肢を行使する。色んな物事を変えてやろうと、このままではあかん、自分が上にあがってやろうと頑張って、部長になっても、4年に1度、ポッと現れる首長が全てを判断し、もしかするとこれまで積み上げてきたものも台無しにしてしまうかもしれない。これには株式市場に上場してしまっている会社の経営と近いものがある。社長がどんだけ頑張っても株主の意向で首すげ替えられる的なノリと。

とまあ、いやあ大変ですね公務員さんも。っていう、一種の不憫な気持ちにもなってくる。

が、しかし。

そうはいっても、だ。

そういう民間企業も星の数ほどある。民も官も関係ない。
しかも公務員の中でも気持ちよく活き活きと伸び伸びとやってる人もいる。そうしてうまくいっている人とそうじゃない人がいて、うまくいってる人がいる以上、結果的にこういう類いの話は言い訳でしかないのが世の常である。うまくいってる人はたまたまそうだっただけ、運がよかっただけ、と思うかもしれない。事実、それが運だったとしても、その運を自分で勝ち取る人もいる。運までも自分で勝ち取る人がいる以上、運がどうとかも言い訳でしかないのだ。事実というのは時に残酷。だって事実だもんという。

仮に本当に過酷な部署や環境にいて、万人が認めるどうしようもない人が上司で、万人が認めるどうしようもない市役所等で、万人が認める大変な状況であったとしても、こういう環境でまじうまいこといかないんすよと周囲に不平、不満をぶちまけ、同情を勝ち取れたとして、その先に何が残るのか?

同情されるという可哀想な人として見られる視線と、同情してもらったあとに訪れてくる何も変わらない日常と虚無感が襲ってくるだけ。

結局のところ、どんだけ日常に不平、不満があったとしても、現状になにか変化を起こそうと思い立つこともなく、動きを変えることもなく、また結局同じ毎日を繰り返す人というのは、なんだかんだいってそのままでいることによるメリットを少なからず享受しているからであって、そこに一定の満足感があることで“こうするしか他に選択肢がないんや”と自己陶酔してでもそのメリットを享受し続けているに過ぎないと思っている。なんだかんだで、ちゃんとメリットのある選択肢を日々とり続けているもんだと思う。それで毎日色んな物事を“我慢”さえすれば、ちゃんと一定のお金が入ってくるから、ちゃんとお金が入ってくる仕事にありつけているから。自分の好きな仕事がしたいとか、自分の生きたいような人生を歩みたいとかいう選択肢よりも、しっかりと堅実的に現実的に自分の生活が成り立つ選択肢であることを知っているから。リスクをとってでも、思い描いているメリットが得られるかどうか見えない選択肢に手を伸ばす気にならないだけ。

結局、どういう選択肢をとるかは自分自身であり、他の人がどういう人生を歩もうが別にどうでもいいし、なんでもいいと思っているので、とやかく言うつもりはない。しかし、不満だ不平だというのなら変えなさいよ、とは思う。

思ってることと、言ってることと、やってることが食い違うと、色んなストレスが発生して、自分の口から不平、不満が飛び出していく。

そういう人生を歩みたくないなら、そういう自分になりたくないなら、そうなりそうな自分を変えたいなら、

自分の思っていることと、言っていることと、やっていることを完全に合致させていけばいい。実はすごくシンプルな世界だと思う。

今回のこの合宿のテーマは

自分はまだ本気だしてないだけだから

自分の過去に本気出した経験がないなら出したらいいだけ。
本気の出し方がわからないなら、四の五の言わずなにか一つやること決めてやり切るだけ。
今の環境で本気が出せないなら環境を変えればいいだけ。

本気だったらやれるはず。本気ならやれるはず。

本気出した結果どうなるか?
どっちでもいいやん、本気だせたんなら。そういうもんでしょ、本気ってね。

とか偉そうなことを思いながら、ああ、最近本気だすことないなあ、平和だなあと思っておりましたとさ。