英断的終了か戦略的休止のススメ


先日、とある地域の会長さんから話聞いてと呼ばれ伺いに。

 

以前から伺っていた、地域で長年やってきた行事を終わりにしようと思ってるけどどう思う?どうしたらいいと思う?という相談が元々の内容。

 

で今回、地域の皆さんとお話を進めてこられて、終わることになったという本件の完了報告だった。

無事にうまくまとまったと聞いて一緒に安堵した。

終わってみれば、地域の人達から「よーゆうてくれた!」と賞賛されることはあっても、文句言われることがなかったとの話だったので、本当は地域の人達もやめたかった人達が大半であった証拠なんだろう。

 

地域で長年続けてきたことを、地域の人達に止めると口に出すことは、とても勇気がいることだと思う。

 

「なんてこというんじゃ!」

「地域の伝統をなめてんのか!」

 

やんややんやと言われるのが目に見えるケースが大半じゃないだろうか。

 

なので当初、話を伺い、状況を把握した上で提案していたのは、いきなり止めるという英断的終了ではなく、とりあえず来年1年間だけやめてみませんか?(二年後は再開し元通り進めていく前提)という戦略的休止だった。

 

今、田舎の地縁団体において、ほとんどの世帯主が60歳以上なんじゃないかと思われる中で、とりわけ30年以上続いている村用、行事というのは、その世帯主からして

「ずっと前からやってきたこと」

「物心ついた頃から当たり前にしてきたこと」

「この村の村たらしめている伝統」

といった感触のものだと思われる。

 

やはりそれをいきなり完全に終了させるとなると、ご先祖様に申し訳が立たないであるとか、自分の代で終わらせてしまうことの忍び無さであるとか、実際のところ如何ではなく、心理的に憚られるものがある。

 

しかし、昔からやってきたから、という理屈ではもう誤魔化せない程、自分達が遂行するには人も足らず、労力を割くにはきつく、そして若い世代での受け入れられなさ等が相まって、やはりどうにかしなければいけないという過渡期にきている。

端的に、新しいことやる余力皆無なんちゃうかと。

 

人間、当たり前になっていることを何でもすぐ手放せなくなっていく。

だから、戦略的に一回やめてみて、それでどれくらいの喪失感があるのか、どれくらいの損失が目に見えるのかを体験してみるのが一番判断がつきやすいんじゃないかと思ってる。

 

「AとBどっちにしようか?」

「続けるか、止めるか?」

二択の決断は、どっちもちゃんと、どんなもんか把握し、実体験がないと決断しにくいもの。

 

今回のように止める、手放すということは、今後あちこちの集落や地域で必要に迫られてくる事象だと思ってる。

個人的に、止めるのは良いも悪いもなく、真っ当な判断の一つだと思ってる。

 

止めてみて、止めてみたことで、やっぱりいると思う、やっぱり自分達には必要だ!という結論に至る人が出てきたら、必要だと思う人達で組織を組み直し、新たに再開すれば良いだけの話で、そうすることで意欲の濃淡にバラつきがなく、やる気のある人達だけで再出発することになるし、内容もこれからのご時世にあったものにしよう、これから先続けていけるものにしようといい循環が生まれる予感しかしない。

 

今回、自分のしたことは、決断を迫られている人物の話を聞いて、頭の整理を手伝った、というのが99%。残り1%は、その話をまとめて案を提示しただけ。

逆に、これしかできない。自分は当事者じゃないから。

 

町の何かを変えるとか、まちづくりがどうだとか、地方創生の名の下にあちこちでやんややんやと叫ばれているが、

立場とか地位とかお金とか、そんなもんなくても、手伝える事があるんだなと再認識しましたというお話。

 

部外者でも部外者だからやれることがあるのだ。