石の上にも三年という死語


昼から春日庁舎でハローワークとの打ち合わせ。

相変わらず丹波市の有効求人倍率は1倍以上を推移しているらしい。ハローワーク側は人手不足が問題という。でも、市内の事業者側は決してそういう認識ではなく、ちゃんとした人が面接にこないとか、出しても求人自体が現れないとか、年輩の人ばっかりくるとか、そういう感じ。つまり、そもそものPR不足であるところとか、マッチングの精度であるとか、入口側に対する点を問題視している。

この辺りは一度、ちゃんと話し合ってみた方がいいと思うなあ。論点がずれてるから。

その後神戸国際会館へ行き、パスポートの受け取りへ。

パスポート

我が人生で死んでも手にすることはないだろうと思っていた、パスポート。ついにゲットしてしまった。どうなることやら。

最近、よく自分たちの事を話す機会をいただく。話す事を考えると、否応なく昔のことにも意識が向く。

石の上にも三年とかいう言葉がある。諺というよりはもはや死語に近いもんを感じる。
我々の新卒時代といえば三年はやめたらあかん的な都市伝説が世の中に蔓延していた時期があった。

笑ける程大体のやつが、
三年は何があっても頑張ります!
三年は絶対やめません!と豪語し、三年どころか一年すら、むしろ一週間も経たずに水を断たれた魚のような目でこの世を去っていったり、心が大きく二回あかん方向に折られたガラケーのようにぶっちぎれていった。

あっちもこっちもそっちもどっちも。どこの会社でも同じことで、そもそも論で当人に三年やり切る素養があるかないかの話。
色んな訳があるにせよ、要は外部環境であれ内部環境であれ、ああしようこうしようと当初考えていた自分の思惑が環境に屈しただけの話。環境は常に自分の味方であるとは限らない。

やり切るだけの価値がないことに後々になって気づいたって場合もあるやろう、全然自分の思った通りにならないことに気づいたって場合もあるやろう、ガチで嘘つかれてて騙されたってこともあるやろう、思いつく限りの可能性のことは世の中大体あるのだ。

仮にどうあがいても環境が悪かったとしよう、万人もそう認めたとしよう。

でも、それで自分の思惑通りにいかなかったという事実は消えない。周囲がしゃーない、ドンマイとどんだけ言おうと、自分の中にその事実は残る。後は自分がそれをよしとできるかだけの話。

年々、先行きが不透明になってきて、三年先すら安定してられる見通しが立たない為か、石の上にも三年は冒頭の通り死語になりつつあり、石の上にも一年になりつつあるどころかもはやそんな根性論の世界観は消えつつある。

1日は24時間。
睡眠時間を6時間として残り18時間。
飯食って風呂入ってして2時間使ったら残り16時間。
この残りの16時間を環境が8時間勤務しろと言われたから8時間きっかりだけ働くのか、それとも自分は働きたいから働いてるだけと16時間働くのか。
何をどうしようが世の中元来は全くの自由。

酒に逃げようが頑張ってるフリに一生懸命になろうがよしとするハードルを下げて自己満足に陶酔しようが関係ないことやって他に忙しくなっちゃったとか言ってみようがしったこっちゃないのだ。

自分がどれだけやり切って毎日を終えているか。
自分がどんだけあーだこーだ何かを言い訳にして実際は余裕があるか。

全部、自分だけがわかってる。
全て、自分だけがわかってる。

三年やり切ったら全てうまくいくのか、といえばそうとは限らない。三年以上の歳月をかけても全然あかんまんまの事もある。頑張ったら頑張った分だけ成果がでるのは残念ながらものすごく一握りの人にしか返ってこない。

頑張ってりゃ何でもいいなんていうのは、残念ながら現実を直視できていないだけで現実を正確に把握する能力が著しく欠けているとしか思えない。

残念な程に事実は一つしかなく、好き勝手な解釈だけが一人歩きしてるに過ぎない。
ハードルはあって当たり前。邪魔するやつは五万といる。人の数だけ意見はある。

それでも、うまいことやるやつはやる。
違いは、やってるかやってないかだけの差。

やる側の人になろうやないか。

ダーツの旅

家に帰って、ダーツの旅を見る。今回は丹波市青垣町だったのだ。先日、たまたま青垣町へ行って佐治スタジオの出町君ところに遊びにいっていた時にちょうどダーツの旅の取材がきてると町中噂が流れていたのだ。TAKパラグライダースクールの只野さんとか出てましたな。ええ感じでした。