本当に必要なのは“答え”じゃないねん


こういう生き方の方がいいんじゃないか?

俺にはああいう仕事の方が向いてるんじゃないか?

これは俺がやるべきじゃないんちゃうか?

俺がほんまにしたいのはこれじゃないねん。

あっちを選ぶべきか、こっちを選ぶべきか。

これからの世の中、こうした方がいいんじゃないか?

等々。
生きてりゃ、大なり小なり、色んな悩みがある。もやもやしまくる。
人の数だけ立場も違うし、悩みの捉え方も変わる。

昔のように、見通しが立ちにくい世の中であることは確かやろう。
今世の中にある仕事のうち、65%くらいが10年もしたらこの世から消滅するとか言われてる。

そうなるかもしれないし、そうならないかもしれない。

どうなるかは、蓋をあけてみないとわからない。
もっと正確にいうと、世の中の人の思惑を正確に全員分把握できる人がいるならば、どういう世の中になるかわかるかもしれない。

結局、自然災害以外のもんは、人の思惑のぶつかり合いやから。描ききったもん勝ちな側面もある。

便利な世の中になったもんで、答えはそこら中に転がってる。
こんなことしようと考えた、自分なりの斬新なアイデアだった物事の大半は大体世界の誰かが先にやってて、いとも簡単に事例を調べることができ、いとも簡単に答えを仕入れることができる。

でも、答えがどんだけ手に入っても、うまいこといくかどうかわからない。やってみなけりゃわからない。

昔から何度もいっているけど、1秒先の未来すら誰にもわからんのだ。

環境や状況が変われば、出す答えも変わる。

単身で、仕事辞めてて、30歳になったところで、たまたま選挙に呼ばれて、行って、誘ってもらえたから丹波にいった。
これでもし家族がいて子供がいたらそうしてたかはわからない。そういうもん。答えは場合に寄ってコロコロ変わる。

語弊を恐れずにいうと、答えはなんの役にもたたないと思ってる。むしろ、答えをもってることで動きづらくもなるし、答えを握りしめてるからこそ、その事実を奥底の自分が知っていることで悩む人もたくさんいる。

どうすればええかわからんというやつの大半は、こうしたらいいって答えをもってるから悩んでる。少なくともそう見えるケースが多い。

いかなる答えでもって進んでいっても、正解にもっていく、こじつけていくことがよっぽど大事やとおもってる。

富士山に登ったことないやつが、吉田ルートでいくか、須走ルートでいくか、御殿場ルートでいくか、富士宮ルートでいくか悩んでる状況と近いもんがある。

どのルートがええのか、ネット上に答えは転がってる。
他のルートがあるって知らないやつは真っ先に目の前に飛び込んできたルートが御殿場ルートなら他の選択肢なんて考える余地もなくそれだけをひたすら登る。登りきった時に初めて、このルート(答え)でよかったって“正解”になる。

もし万が一、選んだルートが想像してたよりもえげつないくらいしんどくても、意地とプライドでもって、時にはルート変更すらかますけど、ならゆる手段でもって登頂(正解)にまでもっていく。

そういうもんやと思ってる。
正解でした、といえる状況にもっていけてはじめて、答えは答えになる。結果論に左右されるもんなんやと思ってる。

気になる女の子がいました。
うまいこと知り合いになれて、付き合いたいと思ってる。
どう告白すべきか?色んなやつに聞いて情報収集する。こうしたらええんちゃうかという答えがでてくる。
でも、そうしたらうまいこと付き合えるかどうかなんて、やってみないとわからない。
これが答えだと思っていて、相手にぶつけてみたら、ごめんなさいと言われた。振られたから、諦めました。

じゃ、ないねんって話。

正解までもっていくんやろ?
その時の一つ一つの答えなんかどうでもええねん。

どっからでも、どんな切り口からでも、どんな状況下からでも正解にもっていける力があることが俺はかっこいいと思うし、

俺にはこれしかないからって一つの答えにしがみついていつまでも正解にたどり着けないしたどり着く見込みもなくなってる状況になっていてもなおその答えにしがみついているってのは、流石にはたからみてても、かっこええもんとは言い難いけどね。

的な事を、ふっとロマサガから学んだ昨夜でした。

romasaga