聞かれるといつもなんでやろ?と思うこと


“なんでそんなに人を見る目があるのか?”

“なんでそんな客観的にモノが見えるのか?”

といったようなことを、しばしば人から言われるが、なんでなん?と言われるたびに、なんでやろ?と思う。なので、一回言葉に落としてみようと思う。

人が見る目がどうこうというのは俺の場合は結局、
言葉自体が、そもそも人を信用する信用しない、信頼する信頼しないの対象になっていない。

実際のところ、本当の意味で信用していい言葉なんてものは恐らく契約書とかの類くらいやし、信頼できる言葉というのは根本的に信頼できる人から出てきてるかどうかやし、言葉は所詮ツールであって、言葉自体にそこまで重きを置いていない。

これまで生きてきた33年間の歴史の中で、この人のいうことは100%鵜呑みにしても大丈夫な人だ(この人がいうんだったらまあ間違いない)と思えた人は数人くらいしかいない。
そこには当然、その相手に対して尊敬の念があったり、ああなりたいという羨望の気持ちがあったりもして、そういう自分が創り出したフィルターを通してみていることを含めて、そういった気持ちが自分の中にあるということを一旦横に置いておいても、まあやっぱり間違いないと思えるという次元の人達。

ほとんどの人の場合、何にも考えずにモノをいってるか、一言一句すべてにおいて“自分はこういう意味でその言葉を用いている”なんてはっきりと掴んでいないし、自分がどういう立ち位置になっていてその言葉を用いているかなんて把握してないし、自分がその言葉を相手に投げかけたら結果どうなるかなんて考えてもない。

相手がどういう人であるか?といったことを知るのに、その人の口から出てくる言葉のみで判断するのには到底無理がある。

ものすごい極論的な例を挙げると、相手から“愛してる”と言われたとしよう。相手が“愛してる”と言った時、
1、めっちゃ嫌そうな顔しながら
2、鼻の下のばしながら
3、目線が上の空な感じの状態で
4、こっちの目をまばたきもせず見つめながら
5、貧乏ゆすりしながら
6、パソコンをかたかたしながら
7、携帯をいじいじしつつニヤニヤしながら 等
同じ意味合いで、言葉本来の意味通り、受け取れるだろうか?

この当たりのことは昔から賛否両論ありまくるメラビアンの法則的なところでも言われていることであるが、人間は結局、ノンバーバル(非言語)なところで大半のところを判断している。そんな賛否両論ありまくる法則はさておき、実際のところ、言葉を通じてその人がどんな人かを判断する為の一つの手段にはなり、自分も言葉以外のところを大いに参考にしている。

こういう話を言えば言うほど、常日頃からそんなことを考えているのか?という話にもよくなるが、全然そんなつもりはなく、たわいのない会話をしている時は、ふっと湧いてきた言葉をパッと投げて、返ってきた言葉を受けてまた湧いてきたことをパッと返しているので、そんな熟考して、常に詮索している訳ではない。

昔から付き合いの長いやつであればあるほど、

“ほんまお前は人に興味ないよな”ってよく言われる。そうなんですよ、あんまそんな万人に興味ないんですわ。特に会ったこともない、知らない人は特に。顔見知りなんでね、どっちかというと。すごく狭い世界に生きてるつもり。聖人君主になるつもりもないし、誰からも好かれたいとも思わない。結局、自分の人生じゃないしね。人それぞれで。

でも、たまにはそりゃ相手がどういう人かを知る必要があるケースもある。一緒に仕事する場合とか。一緒に何かをする場合とか。大変な人と組むと大変な目にあうことがわかっているようなことをやる場合とか。

そんな時、何を判断材料にしているのか?ということになるが、それはどういう行動をする人か?を見ている(ような気がする)。

考えていることと、ゆっていることと、やっていることが完全に合致している人はとにかくわかりやすい。
相手が何かやっていて、それは何の為にやってるんですか?と聞くと、こういうことを考えていてこういう理由でやっているんだよといった内容が返ってくる訳であるが、そこに何1つ疑問がわかない。そうなんだとしっくりくる。

やっていることと、ゆっていることが食い違ってくると、どの口がいうとんねんといった類のツッコミが自分の中から湧いてくる。その場合、こちらからするともはやその人が何を言っていても何1つ信憑性がない。そうなってくると、ゆっていることはともかく、実際に動いてるのはどこか?どういうところでどういう行動をとる人か?を見ていた方がよほどその人を知るという点ではよほど判断材料になる。

考えていることと、実際にやっていることが食い違っているというケースもやたらある。それは何を隠そう自分にもあるし、あれやこれや考えていながら、全然違うことをやっているなんてことは自分も含め日常茶飯事。マラソンは大嫌いでもう2度と走らないと心に決めたと心底思っていて、周囲にもいっておきながら、毎年募集がかかるとなぜか申し込んでいて出てしまっている。

でもこれは、自分が何か動いている時のことを、落ち着いて、ゆっくりと自分自分を観察してみたり、後々になって振り返ってみた時に、1つ1つひも解いていくとなんだか明らかになってくる感じがするが、何か行動に出た時、それはその直前にその行動にでようと判断した瞬間があり、その判断に至るまでの所要時間が物理的にものすごく短く、でもその間に色んな過去の経験則であったり、人から聞いた話であったり、自分で考えた未来のシュミレーションであったり、色んなリスクであったり、メリットであったりを瞬時にバッと考えていて、それが自分自身でも把握しきれない、それは要は、あまりの速さであまりに多くのことをバッと考えているが為に自分の中で全部を言語化することができていない為(言い換えると、頭に浮かんだことを全文読み上げている時間がない為)だと思われる。

例えば、自分が何か考え事をしているシーンを思い浮かべてほしい。
およそ、一人の人(つまり自分)が、ああいう場合はこう、こういう場合はこう、と一人で誰かに話しかけているようにしか言葉が並んでこないんじゃないだろうか?脳みその中でそんな同時多発的に広がる思考を、1人称の思考で全部を言語化し紐づけていき、読み上げるなんてことは不可能に近いはず。

例えば。
今、複数人で木を切りに出かけています。
1人がチェーンソーで木を切っていて、自分以外の人は切っている部分を見つめていて、自分だけが少し離れたところで全体を見ていました。切り始めてしばらくすると、切っているところは何も変化がないが、ふと見上げると木のてっぺん辺りが大きく傾いてきてるやんけ!

『あかんやばい!逃げろ!!』

ととっさに叫ぶという行動をとったとする。
そんな時に、

1、木を切る場合は根もとが支点となっている為傾き始めていても見た目にそんなに変化が起こらない
2、木が倒れる際、跳ね上がりでけがをしたり思わぬ方法に倒れたりして人が下敷きになる恐れがある
3、林業はそもそも毎年死亡する人が山盛りいて常に死と隣り合わせである
4、このままほっておくと連れがケガしたり死亡してしまったりすると大変なことになるのでとりあえず今客観的に物事を見れている自分が叫ぶことによって危険が近づいていることを知ってもらい非難してもらおう

なんてことを、ものの1秒にも満たない瞬間に全文、まず読み上げられるだろうか?まずもって無理だ。俺のCPUが脆弱だからかしらんが、どう考えてもとにかく俺には無理だ。

そんなこんなで、人の考えであったり、人がいっていることを把握するなんていうことは、そもそも論で不可能に近い。完全に不可能とはいわないが、それでも100%に到達しようと思うと、それは相手の脳みそでもリアルタイムに透けて見えるくらいの透視能力かもはや無線LANで同期でもされていない限り難しい。
思考するというのは、自分の中に湧いてきたモノを言葉を使ってはめ込んでいき、整理するといった作業のことであり、湧いてきたモノ全てをぴったりの言葉という名の箱に収めきり、収納しきるということはこれまた難易度が高い。なので、考えや言葉なんていうもので人を判断するということは、相手を実に不正確にとらえているといっても過言ではない。

話がそれまくったが、じゃあやはり、行動からみるのが一番わかりやすく、精度も高い。実際問題、その人と付き合っていく上で、どういう時にどういう行動をとる人かどうかをわかっている方がよっぽど付き合いやすい。こちらが相手に求めているのが共に行動することであれば余計に。

語弊を恐れずに言うと、何を考えていようが、何を言っていようが、そんなもんは心の底からどうでもいいのだ。

だって、聞いたこともない外国の言葉でしゃべる外国の人でも、聞いたこともない言葉だから何考えているかなんて聞いてもさっぱりわからんけど、でも例えば初めましての時になんかお土産もってきてくれたり、家事手伝ってくれたり、色々親切にしてくれたり、なんか色々協力してくれたら、もうそれで十分いいやつだと思うしわかるし、それでええやんって思う。

逆に、先述のことをどうでもいいと思えない人は、何を言っているのか理解できる人としか付き合わない時点で自分の考えと合致する人としか付き合えないし、何を考えているのか把握できる人としか付き合わない時点でどんだけ付き合っていても皆自分と同じような考え方しかできずにガラパゴスな脳みそしかできないんじゃないかと思う。

それがいい悪いじゃなくて、別に人がどういう生き方をしてようが俺には知ったこっちゃないし、もはやこれは“生き様”や“ポリシー”といった領域のことなので、そういうポリシーならそれはそれでよし。ただ、俺とはポリシーが違うだけ。考え方や言葉の使い方が違うだけ。付き合うかどうかの判断材料にはならない。

だって関係ないもん、行動しか見てないから、ということ。

そんなこんなで、“なんでそんなに人を見る目があるのか?”という問いに関しては、

“あなたとみているポイントが違うからだよ”ということになりますかね。はい。

客観的に物事をみてるとかいうのは、大きく3つあって、

◆そもそも人に興味がそんなになく、そもそも自分にもそんなに興味がない
◆そもそも自分(達)の考えがそんなに正確で完璧にあっていていつも正しいと思っていない
◆自分(達)本位の考えで失敗するのが何より嫌で避けたい

という具合で、なんだかネガティブに聞こえる側面が多い。

自分にそんなに興味がないので、自分に関することで、自分自身のことで頭がいっぱいになったりした瞬間あたりで、パッと自分から離れる感覚がある。“まじこれやばいどうしよどうしよどうないしたらええねん”→“ってかそもそも、落ち着いて考えると~~”といった具合に、ある一定のリミットに達した段階で離脱するようになっている。

自分(達)がいつも正しいと思っていないので、“よし、これでいこう!”“やっぱこうするべきやで!”といった考えが頭によぎったり、周囲がそうなっていった気配に包まれると“ほんまにそうするべきやっけな?”と急激にブレーキをかける自分がでてくる。“こうだ!”という自分がでてくると、“ほんまに?”という自分がでてくる。

失敗するのを避けたいってのも、やっぱね、B型でね、根本的に自己中なところがあって、世界は自分を中心に回っているというのを心底信じている自分もいて、過去に何回も失敗してきて、ああ、やめときゃよかった・・・と自己嫌悪に陥ることが多々あってですね。だから、B型のくせに、B型であることを嫌悪している自分もいて、相反する自分が自分の中に居る訳です。

なので、

“なんでそんな客観的にモノが見えるのか?”と聞かれたその瞬間の時の俺はすでに先述の事後の俺であって、その客観的になている前の段階ではものすごい主観的な自分が存在した後の話なんじゃないかなと。好き嫌いも壮絶に激しいし、選り好みや偏見が大好きな自分が根本的におると自覚していて、ある一定ラインから客観的になるんやけど、スタートは真逆の主観的から始まっていることはまあ間違いない事実かと思う。

おもいっきり主観的だから、ちょっと待てよとブレーキがかかると、真逆の客観的に突き当たる。
そんな感じなんじゃないかなと。

まあ、そんな感じ。

自分のことを自分でよく理解している方だと思うけど、我ながら本当にややこしい脳みそをしているとは思う。多重人格じゃないかと思ったりもするほど、色んな自分が自分の中にいて、脳みそが色々忙しい。

だから余計に、自分のことも結局、自分が何を考えているかより、自分が何に動いているか?から見た方が把握しやすい。脳みそがいつもごちゃごちゃしてるから、そっちを見るより、動いてる方から考察する方がわかりやすいし理解しやすい。

うん。そんな感じ。

なので、“なんでそんな客観的にモノが見えるのか?”についての解答としては、

“主観的であることにある時期から嫌気がさしたからだよ”

ということですな。

うん、すっきり。気持ちよく寝れそう。おやすみ。