人生の歩み方


午前中は移住の相談窓口業務の定例会議。
ゆっても無駄なことに対して意固地に頑張るのはアホらしいので、やれることだけやろうと思いますね。

夕方は氷上町鴨内の芦田ポートリーへ。
今年からだんだんでてきた岡崎おうはんの親鶏の肉を試作としてハムにしてもらったんやとのことで、おすそ分けをいただく。

ひねハム

どんな感じに仕上がっているんですかね。楽しみ。
先日は鶏ガラを預かっていて、それを明日スープにして、今度土曜日に開かれる佐治BARでつけうどんとして提供する予定。

最近なんだか、今、目の前のことに取り組むことをさっさと諦めてやっつけ仕事にすり替えてしまい、もうどうせ一年で辞めるからとか何ゆっても無駄なんでとかいい始め、今やらないことの言い訳をし始める若い連中に多く出くわす。

その時点でさっさとやめて次いけばいいのに、と率直に思う。
理由の大半が上司が意味プーであるとか、自由にやらしてくれないとか、そういう類のことがほぼ100%。結局、意味プーなお上の方々に屈していてそれを解決するだけの能力が足りないだけとしか見えない。自分の人生を人任せにしている証拠だと思う。

自分の人生を他人次第にしているから、本当は自分はこうした方がいいと思っていながらも、上司がなかなかうんと言わなかったり、あかんと拒否しただけで、わかりましたと諦めることができてしまう。あかんかったね、ダメやったわ、仕方ないと。仕方ないで終われる程度だったということでもある。

いずれにせよ、かっこ悪いなあと思う。

でも所詮、人の生き様だから、本人がそれでよしとしているならそれでよいんちゃうかというオチになる。みんながみんな、主体的な人生を歩む人種ではないから。誰かにおんぶにだっこじゃないと生きていけない人も沢山いる。いいも悪いもなく、色んな人がいるから世の中成り立っている。全員が全員、やりたいことに満ち溢れていて、自分の世界観をもっていて、自分のやりたいことや夢を追いかけていたら、各自のフォロワーが皆無になる。それはそれでやはり不自然。

逆に、部下や下の人にそう思われてしまっている上のお方達は一体どういうつもりでそうしているのか?といえば、これまで見てきた体感値からすると、当事者の皆様は“そんなつもりは全くない”という感じばっかり。無意識に部下をそういう風にしてしまっている。それに関し、なんで自分の部下はみんなそうなっていってしまうんだろう?と悩んでいる人もいれば、出来の悪いやつらもって大変やわ全くと下のせいにして自分のせいとは微塵も考えていない人もいて。

そういった間柄を客観的に見ている限りでは、全く持ってどっちもどっちであり、どっちも他人次第の人生を歩んでいらっしゃるが故の、当然の帰結を迎えているだけに過ぎない。

一生悩みながら生き続けていくんだろうな、きっと。

自分はそうはならないようにしようと、いつもある種の元気をもらいます。