大人≠パーフェクトヒューマン


うちの子は朝食べた小豆がまだ中身しか消化出来ず夕方には皮がポロンとそのままでてきてしまう。何でもまだ消化できない。
歩き方もまだまだぎこちない。
ものは話せないし、何いってるか理解できない。字も書けない。一人でトイレもできない。

まだまだ小さいから、出来ないことが沢山あって“当たり前”。

どのタイミングで、出来ないことが沢山あって“当たり前”じゃなくなるのか?
杓子定規的に20歳なのか?学校卒業して働きはじめた段階なのか?

なんとな~く、成人したらとか、社会人になったらとか、特に明確な基準が世の中にあるわけでもなくどこかしらの何かしらのタイミングでいきなり“大人扱い”になる。
なんとな~く、“大人扱い”というのはどこかパーフェクトヒューマンな感じで、いきなり大前提が

“失敗しちゃいけない(失敗はしないのが当たり前)”
“なんでもできなきゃいけない(なんでもできて当たり前)”

に変化する。つまりそれが“=大人”“=社会人”といわんばかりに。

俺からすると、自分も含めそんなパーフェクトヒューマンな大人なんぞ皆無に等しく、今まで会ってきた大人の中でもそんな完璧な大人は数人しかいない。ほとんどが不完全であり、ほとんどが見た目が老けただけの中身が未熟なままの大人ばかり。

不完全な大人が不完全な子供に対し

『~~しちゃいけません!何回言ったらわかるの!(不完全ダメ!)』

等と怒っていたりしつけてたりするのを傍から見ているとどこか違和感を覚える。
逆に子供に対して怒っている大人を『何怒ってんねんコラ!お前も未熟やろが!』等と怒ってみたらどうなるんだろうか。そんなことはない自分は子供の為を思っているのだ云々等と諸々の反論が飛んでくることがあまりにも容易に想像がつくが、突き詰めていくと結局、ほとんどの場合“怒りたいから怒ってるだけ”に帰結するイメージしかない。だって不完全なんやもん。

大人になっても山盛りいるのが、

『誰の為にやってやってると思っているんだ!』とかいう人が大体自己満足の為にやっているに過ぎず、
『一体誰が責任をとるんだ!!』とかいう人が大体責任とらない人で、五月蝿い人であればあるほど責任をとらない。

そういう不可思議さは中学生にもなったら大体空気くらい読める。下手したら小学生でも読める。とっくにバレてる。バレてるのに気付かない程さぶいことになっていることにすら気づかない大人も沢山いる。

もちろん“大人として扱う”“社会人として扱う”ことそのものは別に何も悪い事でもなんでもなく、ちゃんとした人間(=大人)になるべくそう扱われることでなるべき姿として追い求めていく過程というのも大切なことで、未熟なまま、不完全なまま、何もできないままでいるのではなく完璧を目指していくというところではむしろいい事だと思っている。

老けるだけなら誰でもできる、できるっていうか勝手に老けていく。家に引き籠ってても息吸ってるだけでも勝手に老ける。
“大人になる(=パーフェクトヒューマンになる)”のは誰でもできない。目指してみても一生涯のうちになれるかどうかわからない。

そもそも何が失敗で何が成功なんだ?
そしてそれはそもそも誰にとっての失敗で成功なんだ?

自分が不完全で未成熟な間は、一緒にパーフェクトヒューマン目指してやっていくみたいなスタンスがいいと思うな。
人のことをとやかくいっている暇は、どこにもないのだ。