3年半前の事実を覚えているか?


昼前、とある丹波市内の人が相談にこられた。とある自治会でIターン者に集まってもらい忌憚なく意見をいただくという会を催すといったもので、どういう風にやればいいでしょう?という内容。

その地区ではIターンという括りにはいる人が30世帯程存在しているらしく、それはそれですごいなあという感じであるが、現在の自治会長さんが彼らが一体我々の地区に満足してはるのかどうか率直なとこどうなんやろう?というのが聞きたいのが根本なんだとか。まじいい自治会長さんですなあ。

個人的な感覚値であるが、そう思ってても動かない自治会長さんは沢山いる。なんでかって、そもそも能動的に自治会長してはるケースがほとんどないから。大体集落内で選挙があって、そこで選ばれる訳やけど、年々若い人も減ってきて、二回目が回ってきてしまっているところも存在するし、自治会長の仕事は一年間の3分の1はもっていかれると言われている程あれやこれやをしなければならない。この、“しなければならない事”が“するべき事”なんて能動的に捉えられる人はまあほとんどいない。“選ばれたらしゃーないな、やったろか”という感じが大半。

なもんで、やらなあかんとはいえ、ほんまに着手できる人は少ないと思う。その点、この地区はえらい積極的で実にいいことだと思う。以前、丹波県民局でどストレートを投げた日に来てくれていた方々。こうなってくると、投げてよかったと思う。なんかあったら絶対応援しにいくことを約束。本気なら本気だこっちも。

もはやどこも一律待ったなしの状態であることに気付かないといけない。丹波市は赤字転落まであと4年しかないのだ。

夜は柏原住民センターにて、海士町の隠岐國学習センターの豊田庄吾さんが久しぶりに来丹され講演するということで参加。

豊田さん

豊田さんと初めて会った日が、俺がちょうど丹波にきた3か月後くらい。2013年2月22日。あの日も豊田さんが丹波に来て講演をしてくれていたのだ。あれから3年半の月日が流れた。

話を聞きながら色んなことが頭をよぎっていた。

3年半

3年半前の、丹波市地域づくり講演会と題されたイベント。100人以上はいたんじゃないかな。場所はゆめタウンのポップアップホール。
この日、豊田さんの講演の後、今感じている地域の課題は何か?について各自ポストイットに書いてホワイトボードに貼って帰るというもの。その結果がこれ。爆裂的に“人に問題がある”との結果だった。

丹波市にきてすぐにこれ。
『あかんこれまたやばいとこきてもうたかもしれへん』と率直な反応として思った笑

タイミング的に、2012年12月に丹波市にきて、みんなの家の前の仮住まいに住み、2013年1月下旬にみんなの家が始まり、花ちゃんが合流して、三人目となる住人の荘司を迎える前。俺もまだ村入りも何もしていないタイミングの出来事だった。

あの時も結局、こうして全てが終わってからこうして課題が浮き彫りになったものの、それに対して何一つ議論が行われずにヌルっと終わった。

そして今回もまた、海士町の取り組みを聞いてすごいよねーいいよねーで、結局我々の課題についてはさっぱり触れずにヌルっと終わった。

この3年半の間で、何か変わったのか?
俺は少なくとも大きく事が動いたような気は全くしない。

この3年半の間で、海士町の取り組みを聞いていいなと参考になるなと思ったことが何か1つでも形になったのか?
俺は少なくとも実感をもてたことは何1つない。むしろ何1つ解決せず上にどんどん積みあがっている感じがしている。

海士町は粛々と着々と、物事が進んでいる。丹波市と一体何が違うのか?
話を聞いただけでよかったよかったと満足しているような状況では何一つ変わらない。どんだけ小さくてもいいから今までとの違い(変化)を創らないといけない。

今回話を聞いていてこれまでずっと感じていた違和感の謎が少し解けた気がする。
なぜだか世の中で教育を語る大人が増えている。俺は実に天邪鬼な人間だから大勢が興味を持つものに関し興味が失せていくという性格をしていて、身の回りで語られれば語られる程興味が自分から遠のいていた。

それに加え、海士町の取り組みはもはや色んなところが参考にして似たような取り組みは日本各地で沢山行われているが、なぜか海士町程突出した成果がでているところが少ない。なぜか?
結局のところ、手法ややり方はいくらでも真似れるが、根本的なところの教育を行う人の“在り方”が何1つ変わってないんじゃないかと思う。

『多様性を認めなければいけない』等と口ではいいながら全然多様性を認めておらず結局のところ異分子を排除していたり、
『これからはグローバルな視点が必要だ』等と口ではいいながら自身は一度も海外に出ていなかったり、
『地域教育が必要だ』等といいながら自身は微塵も地域におらず地域教育もくそもない状況であったり、
『教科教育よりもキャリア教育だ』とかいいながら実際のところ何をどうすることがキャリア教育なのかも語れなかったり、
『これからは主体性が必要だ』とかいいながらいざ人が主体的に取り組むとそうじゃない!とか口先だけで人の主体性を阻害していたり。

そんな教育を施される側からするとダブルバインドに挟まれ『結局どないやねん』と身動きがとれない人間になっていく。

同じプロ仕様の包丁でも、極悪人が握れば凶器になり、料理人が持てば立派な調理器具になる。
同じ火薬でも、極悪人がもてば凶器になるし、花火師がもてば綺麗な花火になる。

これまでの時代の教育でも結局、天才もバカもいて、めっちゃ仕事ができる人とそうでない人がいて、めっちゃ空気読める人とそうでない人がいて、つまるところ教育をする側にも受ける側にも、自身の『在り方』次第で違いが創られれていたことを証明しているではないか。

今の世の中、手法ややり方なんてもんはネット上にもやばいくらい転がっているし、本屋にもやばいくらい並んでいる。
本当にやり方そのものが必要か?俺は、決してそうは思わない。むしろやり方なんてもんはなんでもいいとさえ思う。今、教育の現場は“在り方”が問われているのだと思う。それは結局、3年半前の時から何1つ変わった気がしていないのも、この“在り方”なんじゃないかと思うのだ。

自分の子供もあと6年もすれば小学校にいくことになる。今のように俺たち親以外からも色んなことを教えてもらう機会が増えてくる。万全の態勢で迎えようやないか。

今回も豊田さんありがとう。