在り方の変化


朝っぱらからひたすら黒枝豆の収穫。

レッドブル

即行レッドブルを注入。たまにはこんな感じで仕事をするのも乙なもんである。

絶対夕方まで終わらないという保証があり、むしろ終わらないんじゃないかという状況下で、どうせやらなきゃいけないことはただ1つ。黒豆を予定された量収穫しなくてはいけない。それに対して手と足が動いているかが全てであり、それ以外は何も役にたたない。とにもかくにもただただ、手足を動かす。それ以外にこの仕事を終わらせる方法なんてないのだ。口を動かし、脳みそを働かせることなどこの現場において手足を動かす以外のことは全て論外なのだ。それがこのタスクの全てである。

自分の手が足が、ちゃんと黒豆の収穫にだけ集中しているか。それ以外に余計なことをしていないか。
目の前のタスクがどういう性質のタスクで、今そこに自分は真っ向からそのタスクを成し遂げる為の最善の手を打てているか。
それがちゃんとつかめない人に限ってダラダラと時間がかかり、無駄な動きをする。

田舎で真昼間から飲むということはどういうことかというと、車でしか移動できない環境下なのに、車に乗ることができなくなる。つまり、ここから離れることができなくなる。よって、ここでこの作業するしかなくなる。だから、他の余計なことを考えること自体がなくなる。ただ単純に朝から飲むビールは最高!なんてことで飲んでいる訳ではなく、退路と迂回路を絶ったのだ。勘違いされちゃ困る。

今回は東京の青山ファーマーズマーケットに出展する用。
生産者本人はいけない。でも、生産者が作ったこの黒豆は現地へ行き、消費者の口に入る。もしその時、虫食い等の出来の悪い豆が入っていたらどうなるか?噛むとブルーになるへちょい豆を食べたらどうなるか?きっと本来このすこぶる美味い代物を嫌いになるだろう。本人の預かり知らないところで。それは生産者本人がいけない以上、断固として回避しなくちゃいけない。

枝付きの枝豆を売るのに、もし余分な枝がついていたら、買った消費者はどう感じるか?きっと損した気持ちになるやろう。だから余計な枝や葉っぱは根こそぎ落としておくにこしたことはない。人の代物を扱う時はいつも以上に慎重になるし、丁寧になる。自分のもので、もし自分がいくんだったらなんとでも対応もできるし、どうなっても自分が悪いとも思える。俺は基本的に、自分のことは超適当だが、人の物事を扱う時は超A型なのだ。自分事ならまあええかですますことも、他人事ならすまさない。

街中に比べて、田舎は事業主が多い。サラリーマンが比較的少ない。

事業主は全て自分が決めなきゃいけない。例えば黒枝豆にしたって、どれだけ厳格にあかん豆をさっぴくか?どれだけ余分な枝をさっぴくか?いつまでにやるか?いくらで売るか?どれくらい売るか?売ることでどんなインパクトを顧客に与えるか?等。全てを決めなきゃいけない。何か起こったら全て自分で完結させなければいけない。個人事業主ならば余計に。

サラリーマンは自分が決めなくても上長が決めてくれる。自分が休んでも他の誰かがやってくれる。自分が考えなくても他の誰かが考えてくれる。自分が責任をとらなくても誰かが責任をとってくれる。自分がサボっても他の誰かがそのツケを払ってくれる。

先日の話で決断について触れたが、街中から移住してこようとする人が、根本的に把握、理解しておかなければならないことは、自分が田舎にいくことによって成し遂げたいことは何か?ということ。ただ単純に住む環境と家と、仕事が変わればそれでいいのか?

特に仕事に関して、どこかの企業のサラリーマンになるというよりは自分で何かをしたいとか自分の好きなことを仕事にしたいとかいう人が割かし多いが、事業主になるということはこの、根本的な“在り方が変わる”ことを理解しておいてほしいと思う。サラリーマン根性の事業主ほど、事業主からして扱いにくい取引先はないのだ。俺は事業主でもあるしサラリーマンでもあるから、その間柄はすこぶるよくわかっているつもりでいる。

そもそも、そこの在り方を変えずに仕事だけを単純に変えるだけの話なら、むしろ街中にいて仕事だけ田舎にくる方がよっぽどしっくりくるはず。サラリーマンとしてのまま地方と関われるからだ。根本的に地方はサラリーマン気質の人よりも事業主気質の人に合い、街中はサラリーマン気質の人の方が合うと感じている。

一応断っておくがサラリーマンが決して悪い訳ではない。必ず世の中には必要な人材であると思っている。それは、世の中に夢と目標を持った人材だけで構成されれば各々のフォロワーがいなくなるのと同次元。支える側の人材も必要。
ただ、自分が事業主になりたかったり、自分の意志で全てを自由に決めたいのであれば、やはり単純な仕事そのもの(職種や業種)のみ変えるだけでは実現できないもんだと思っている。

目の前で行う作業は実に地味で、作業内容だけでは何も意味がないように思えるものかもしれない。
ただ、そこにどれだけの意義と目的を持たせ、次に繋げるか?しかも気持ちよく。できることならばそれも永続的に。先を見ている以上は、目の前の物事はただの通過点でしかなく、その後が大事。

IターンもUターンも孫ターンも他ターンも、ただの手段。人生の目的にはなり得ない。
それを行うことで、何を実現したいのか?何を得たいのか?自分はこれからどんな人になりたいのか?どんな人でいたいのか?

転職だの引っ越しだの、手段がやけに着色されるが、根本的な在り方を問い直すことが大事だと、常々思っている。

丹波市にきてから、おもろい人がめちゃくちゃおるんやなあと感じ、そのおもろいなあと思わせてくれる人たちはほとんどが事業主であり、自分で物事を自分で決めきれる人達。自分も全て自分で決められる人になりたいと思うし、確固たる自分で在りたいと思っている。

自分が移住前、新天地に求めたことは、

“思っていることと、言ってることと、やってることが完全に一致した世界に生きたい”だった。

それを当初からずっと今も、おいかけている。