変なイベントと大ナゴヤ大学@名古屋


午前中から家族を置いて名古屋出張。最近出張を極力入れないようにしている。なんか心のどっかに罪悪感めいたものを抱いてしまうから。でも今回のように外せないものもでてくる。こればっかりは仕方ない。

昼からは場所が名古屋とだけ決まっているイベントに参加。前回、丹波市とだけ決まっているイベントがあり、そこで次回は名古屋でと決まったので、今回は名古屋。なんだかんだで15人程が参加。

場所が決まっているだけなので、特に何をするかを予め決めている訳でもなく、誰か来るのかもあまりわかっていない中、とりあえず集まってみて、自己紹介からはじめてみて、何か起こってもいいし、何も起こらなくてもいい。それで別にいいし、むしろそれがいいとかいう人が集まるのが、こういった“No isuue,No agenda”なイベント。

どういう人が集まるのか?っていうと、これまでの感覚と、想定ではもう人種的に2点。

◆いいやつ
◆変なやつ

端的にいうと、いいやつでかつ変なやつが集まるイベントがこの場所だけ決まっているイベントであると言える。

なんだかんだでこのイベントも、最初は汐留から始まり、静岡→丹波→名古屋と来て、次回は郡上市と決まった。一体これはなんなんだろうかという感じだが、どこか楽しくて、どこか居心地がいい。とても不思議なイベントだが、次もいけるならいこうと思える、とても貴重なイベント。今後どうなるのか。行く末も楽しみなイベント。

このまま帰ろうかと思ったけど、夕方別件で企画されていたイベントに参加。場所は大ナゴヤ大学

実は最初参加せえへんか?とお声がけ頂いた時に断った。内容が自分の肩書きを考えようという内容で、ここまでの人生で正直肩書きなんてどうでもよかったし、あってよかったなんて思ったことはないし、むしろある方が邪魔やしっていう生き方をしてきたので、真剣に自分の肩書きを考えたいなんて人達に水指すんちゃうかと思っていたが、色んな考え方がある方がいいということなので、参加することに。

元々メインスピーカーとして決まっていたいたると、大ナゴヤ大学の子との対談を聞いてて、なんか人の話を腰据えて聞くのもなんか久しぶりやなあと思ったり、これまでまともに考えたこともなかった肩書きとやらに思いを馳せた。

自分がはじめて得た肩書きは、中学校の時のバスケ部のキャプテンかな。
その次は大学生の時に働いていた寿司屋さんでのバイトのサブリーダー的なやつ。リーダーにはなりたくなくて在学中はサブまでだった。今思えばこの時から、一番上がめんどくせえだけ、うざいだけ、っていう感覚はあったように思う。店長と呼ばれる社員が店長になり立てやった場合とかだと結局アルバイトを長く続けてるやつの方が現場をよく知っていたし対応できていたし。肩書きなんかで実際のところは何もはかれへんなっていうのはこの辺りで掴んでいたように思う。

社会人になってからというと、社名が世の中では悪名しか通っておらず、会社名を名乗るだけで激怒されるようなこともあったりしたし、とにもかくにも社名やら肩書きを語ることで無駄にマイナスから入る現象があった為、名刺交換の際も基本的にずっと

“どうも井口と申します”

と名前しか名乗らないことにした。その後、名刺に書かれている内容を見て激怒する人に対してはいやいや俺はちゃうから、一緒にせんといて、という気持ちもあったし、自分という個人と付き合ってくださいなという感じでやっていた。もしこれが有名で善良な企業の名刺だったら、本当にその看板で飯が食えたかもしれない。でも、それが自分の人生では一度もそんな都合のいい看板が手に入らなかっただけ。おまけに、肩書きなしで生活してきて、それが完全にスタイルとして成立してしまっている為、もはやそんな伝説の武器みたいな肩書きを欲しいとも思わない。

逆に、著名で有名な肩書きを手にしてしまうと、色んな偏見も入る。その、名刺を持っている人そのものが完全にぼやける程の影響力がある肩書きであれば余計に、名刺をもつ人そのものは、誰でもいいんじゃないかという感じにまでなってしまう。

結局、会場の皆さんの話を聞いていて、悩んでいる人達の、悩んでいる要素というか、原因は大きく二つだったように思う。

◆自分で何か事業をやる際にしっくりくる名前が見つからない

◆肩書きが基本的には一方的に与えられるものなので与えられた肩書きがしっくりこない

前者が個人事業主や社長に多く、後者が俗にいうサラリーマンである場合に多い印象を受けた。

前者の悩みは多少理解できるが、悩んでもしょうがないものだと思う。自身の人生の中でやったことない生き方や仕事であれば余計にそうで、経験や体験がないからこの肩書きでいいのだろうか、この肩書きであってるんだろうか?と悩む訳だが、やったことないんだからやってみないとしっくりいくかどうかはわからないはずで、今思いついた肩書きがどうもしっくりこなかったとしても、とりあえずやってみるしかなく、やってみて、しっくりこればそれでいいし、しっくりこなかったら替えたらいいだけじゃないか、と思う。やったことないなら、やってみる以外ない。

後者は、元々が勝手に決められるものだし、“受け身”から始まるものだから、自分の経験談からすると、しっくりくればそのままでいいし、しっくりこないなら自分個人で勝負すればいい。与えられた肩書きが役にも立たない、名乗るだけ無駄、むしろ損するものなら、肩書きなんて名乗らなければいい。受け身から始まったとはいえ、活用するかどうかは選べるんだから。使わなかったらいいだけ。サラリーマンしてて、自分で肩書き替えられる人だったらいいけど、そんなケースは滅多に聞かないので、どうこうしようという考え自体が途方もない無駄な労力を割く結果にしかならないように思うので、そんな場合は使わないという選択肢をとる、以上。

で、いいんじゃないだろうか?という風な話を少しした。少しは役にたてたかな。

以前、出会ったことのある陰陽師さんと話していた時、こんな話を聞いた。

彼は本名は誰にも明かさないようにしているという話で、それは何でなのかを聞いてみた。名前というのは、呪いの一種なんですと。個人を特定できる名前を明かしてしまうと悪霊に呪われてしまうのですと。特定できるようになるという点で、名前は呪いの一種なんですという話だった。

肩書きも近いところがあるんじゃないかなと思う。
はっきりとした肩書きを持つと、よくも悪くも周囲はそれによって偏見が生まれ、その人そのものが真っ向からちゃんと見据えにくくなる。肩書きだけが先行して、個人は誰でもよくなってしまったりもする。そうなってきたときに、自分の存在意義が揺らいでしまうことも起こる。そうした時に、苦悩する人も出てくるんじゃないかと思う。

影響力の強い肩書きは、どんな人であってもその肩書きの人にする。そこに、ジレンマが生じる。
そうなってきた時に、自身が何を求めているのか?をはっきりもっていないと、自分という存在が揺らぐ。

肩書きを持って、どうしたいか?

それを、一度考えてみるのもいいんじゃないでしょうか。

僕は、今後もいりません。不要ですので。以上!お疲れ様でしたー。