移住者ですと言える背景


自分のことを移住者という人がいる。
その多くの場合、移住者という言葉にポジティブな空気を詰め込んでわたし移住者なんですという。

いい悪いではなく、自分で移住者ですといえる、ある種胸張って言えてる、という点で、その人達の中ではただ単に住む家を変えただけの引越し、働く場所が変わっただけの転勤、転職ではないと言える。

以前までと住む場所、働く場所がただ変わるだけではない何かが変わったから、ポジティブな要素を持ち合わせているとすると、ここはやはり生き方、生き様なんだろうなと、色んな話を聞いてても思う。

『これまでは仕事優先で生きてきたけど違うかった、大事なのは家族だ。』

『これまでは金優先で生きてきたけど違うかった、大事なのは人だ。』

『これまでは売上優先で生きてきたけど違うかった、大事なのは目の前の一人を救うことだ。』

『これまでは外面ばっか気にして生きてきたけど違うかった、大事なのは中身だ。』

『これまでは自分のキャリアばっか気にして生きてきたけど違うかった、大事なのは人の役に立つことだ。』

『これまでは自分らしさばかり追いかけてきたけど違うかった、大事なのはコミュニティだ。』

自分が引越してきた六年前程は、まだ移住とかIターンとか全然一般的じゃなく、移住相談窓口なんかなかった。自分もギリギリ、移住ではなかった。引越しとか、田舎暮らしとか、そっちのニュアンスだった。周りから移住者とかIターンとか言われて、そういうんかなと思って、言い始めたこともあったけど、違和感がずっとあったから、やっぱりただ引越してきた側だったんだと思う。

ただ、変えたいものは色々あって、それは住む場所だけでなく、働く環境だけでなく、それこそ生き方を変えたかった。 それはもう、すごく自然な形で変わってきていると思ってる。どこが起点になってるか?といえば、丹波に行くと心が定まった瞬間からだと思う。

自分が感じたこと(思ったこと)と、言ってること、やってることが完全に合致した生活を送りたい。次の新天地に求めたものはとにもかくにもこれだった。それが自分の場合、丹波だっただけ。
そう考えると結局、来る前からこうなることが決まってたようにも思う。

そうした生活環境と、仕事環境と、生き方ががっつり三つ巴でしっくりきてる自分が存在した時に、移住者ですと気持ちよく言えてはるんだろうなと。

だから、うまくいってないと感じていたり、何かが違うと感じていたりしているのは、どれかがしっくりきてないんじゃないかなと。

仕事も変えた、住む場所も変えた、でもうまくいかない、うまくいく気がしない。それは、とどのつまり自分自身の生き様が元のまんまだからじゃないかなと思う。

生き様が変えられないとしたら、その要因には世に蔓延しているキャリアがうんたらという誤認や偏見や先入観、夢もってるやつが偉いという謎の空気、やりたいことやりなさいと言われなきゃやりたいことやれない時点でそれやらされてる感、働き方改革といいながらサラリーマンなんだからそれ働かされ方改革やで感等、色んな固定概念が雁字搦めになっていて、人によって何がどうなってんのかは違う。人によって違うことは一概にこうしたらいいという“やり方”は基本的に存在しない。

小難しいことを考え始めるとあれもこれもという感じになるが結局、もっと単純に、自分の現状を直視できないだけ、特にその現状がダメな方に偏ってたら余計にそれを認められないだけっていうケースが大半。自分のダメなところを認められないのは世の常なんかなって感じている。

ただ、それってやっぱダサいから、ダサい大人にはならんようにしようと、ダサい人見ていつも思う。