寂しい“だけ”なら手放す勇気を


ここ1,2年、自治会や自治振興会、自治協議会等いわば地縁団体と呼ばれる自治組織からよくお声がかかる。
基本路線は現在のところ100%、これまでやってきたことができなくなってきた、苦しくなってきた、担い手がいない、先が見えない、予算が削られてない、新しいことをやるにも余力がない等ということ。

寂しい気持ちになりたくないからといって握り締め続けることで生じる害と天秤にかけた時、もし、寂しい“だけ”なら、その寂しさは手放してしまっても全く害はないと思ってる。寂しいだけだから。

そこでなぜ市長でもなく議員でもなく行政職員でもないただの一般市民の自分に声がかかるのか?と突き詰めれば、結局抱えている課題はその当事者である地縁団体だけの課題であり、市全体の課題として扱うのが難しいケースが多いからそうなるのだなと。

一つ一つが実にセンシティブで、公の場で声を大にすることができればもっと迅速に課題が色んな人にも掴んでもらうことができ、解決に向けて適切な形で歩を進めることができるのだろうが、“配慮”という二文字を念頭に入れれば入れるほどそれが難しくなっていく。

最近、どうしても気軽に投稿しにくいのは、こういう場面に遭遇する事案が多いこともある。

その中でやっていることというのは、話を伺い、状況を整理し、利害を調整し、今後進めるにあたって最適だと思われる方向性を提示するということ。別に仕事としてやっている訳でもないし、プライベートかと言われれば別に自分が住んでる訳でもない集落の話だと関係がないし、そうなるとなんなんでしょうね、無理矢理言葉を当てはめると、趣味の範疇?

申し上げておきたいのは、別に自分は神様仏様でもないし、万人に好かれたいとは思わないし善人でもないから、自分の仕事とプライベートを捨てたり後回しにしてまで、仕事でもプライベートの友人知人でもない出会ったこともない人の役にたちたいとは思わない。こればっかりは申し訳ない。次生まれ変わったらそんな善人になってみたいもんです。

何かこれまで続けてきたものがなくなる、
何かこれまで存在したものがなくなる、
何かこれまで拠り所にしてきたものがなくなる、
というのは、須く寂しさを感じさせるもので。

自分が生まれ育った大阪の吹田市というところは、そういった寂しさを感じさせない勢いで、新旧交代時には間髪入れずに新たなものが立ち上がる。寂しさを感じ続けさせるような、物理的な空白地帯や廃墟、時間的な穴が全くない程に。新たに入る人達は、過去の話など知ることもなく、知る必要もなく、知る機会すらもなく、今とこれからだけを刻んで生きていける。これといった害もなく。

移り変わりが緩やかな地方では、次に移り変わるまでに相当な時間がかかるのが“当たり前”。
むしろこのご時世、もう新しいものが空白を埋めることはないかもしれない。

でも、いわば都市部という移り変わりの激しい街中で育った自分としては、逆にその空白がうらやましいとも思える。
しっかりと寂しさを味わう時間があるというのは、いいことではないかと思う。

しっかりと味わい、吟味し、ただただ、自分が寂しい“だけ”だったなら、手放してしまうことが次に繋げたい、次を創りたいと思う人達にとっての財産となる可能性が産まれてくる。

逆に、寂しい“だけ”じゃなくやっぱりどうしても譲れない利害や誇りがあると感じたならば、適切な手を打てばいい。
ただ、一度なくなってしまわないと、本当に自分含め関係者がどう思っているのか、感じていたのかがわからないなんてことは多々ある。

なくなることを恐れずにいたいなと、個人的には思う。
なくすことで生じる空白は、今後のことを深く深く、芯をとらえなおす為に必要な“余白”だと思うから。

寂しい“だけ”のものは、埋める必要があるかないかと問われれば、今のところ必要と思えるものは見当たらない。

いきなり手放すのがどうしても難しいのであれば、とりあえず一年間だけやめてみるといった戦略的モラトリアム期を設けてみるのも手。

むしろ、自分でそれを埋めず、次が埋めてくれるという兆しを垣間見れることの方が、本当にほしい安心感が得られるような気がしている。