足るを知る


昨夜、家に帰ると新たな頂き物の茄子が。

 

 

皆さん、ご覧ください。

こちらが僕の、畑を真面目に頑張らない理由でごさいます。有り難い話で。

 

 

それにしても、東京に行って知り合いに会い、話を聞いていると、東京は疲れるところ、頑張りにいくところ、出稼ぎするところ等、総じて“闘いの場所”という印象を受ける。

 

自分はともかく、もう30歳の時点で満員電車と人混みが心底嫌で、避ける選択肢をとった。

“逃げた”というには、これまでの間にもちょこちょこ用事で行ける場所ではあるので、そこまでの嫌悪感はない。

なので、“街中で生活することを避けた”が表現としては適切な気がしている。

 

ただでさえ知らない人には微塵も興味ないのに、何故知らない汗だくのおっさんと肌をぶつかり稽古しなくてはならないのか。

意味不明な上に不快の極みで。

 

自分にとって街中での闘いというのは、心底嫌いな満員電車と人混みとの闘いのみであって、この闘いの先には何も得るものがないと見切ったからサクッと避けるという選択肢がとれたんやろう。

まあ、自分は根本的にコミュ障なんやろなと思うね。

当時の夢は、“誰にも遭遇しない山奥で仙人のように暮らす”やったし。

 

実家のマンションのベランダからの光景が好きなのは、高いから人が目に映らなかったことが大きいのかもしれない。

 

今となっては見渡す限り人が居ないのが当たり前。

人とぶつかるなんてことは運動会かお祭りくらいしかない。

なんだったら皆総じて鹿と猪との方がぶつかっているかもしれない。

公園に遊びにいっても買い物にでかけても絶対に混んでない。

駐車場に車をとめるのに待ち時間なんてことがあったらそれはもう要通報の大事件でも起こってる。

 

意味もなく“着なければいけない”スーツも大嫌いやった。

真夏に客先だけネクタイしてジャケット着て、客から「見てるだけで暑いからジャケット脱げよ」と言われて脱ぐあの茶番。

もはや冠婚葬祭以外スーツは着ないと決めている。

 

無作為なはじめましての出会いもほとんどが疲れるだけで、“出会いの消費感”を生み、本当に大事にしたい目の前の周囲がないがしろになる感覚がして出会うことが億劫だったり。

今、そこまでして新たに出会う必要がないから、出会う必要性がある出会いしかないのが実に心地良かったりする。

 

振り返ってみれば今の暮らしは、当時考えた最高の暮らしなのだ。

それも年々、暮らし心地があがってきていて。

 

昨日もらった茄子もそうやけど、今日もふらっと家の前を通ったおっちゃんが

『最近マムシよう見かけるからお前んとこの子供遊んでる時気つけよ。今年もう5匹くらいやっつけてるさかい』

といって、子供らが安全なように仕留めてくれていたことがわかったり。

 

こないだはお隣さんがうちの子に芋掘りさせてくれるようにサツマイモを植えていて収穫させてくれたり。

ちなみにその前はイチゴ。

 

夏直前には子供ら用の涼しいパジャマを手作りしてくれたり。

この、お互いの顔が見える範疇で、お互いのことを気遣いながら、気持ちよく暮らしていくことができるというのは、本当にこの、丹波の良さやなと。

たまに街中に出るからこそ気づくこともあり。

街中で気持ちよく暮らしている人達はともかく、闘いながら暮らしている人達は尊敬する。

俺にはもう無理ぽ。

 

ただ、この一田舎の小さな生活も、大きく見ると街中がちゃんと街中として機能してくれているから成り立っている訳なので、せめて街中で頑張る友人知人を何かしらで支えられる田舎の一おっさんでありたいと思うね。