かっこよさとは何か?~恩送りと工具~


思い返せば、頭を丸めて早3年が経過。

 

頭を丸めると自分の見た目、引いてはかっこよさという概念がすこぶるどうでもよくなるという副作用が生じ、かっこつけようなんていう発想自体、遙か昔からどうでもよかったのに完膚なきまでにニフラムされた昨今。

 

それでも稀に、自分の振る舞い等についてかっこいいと言われることがある。見た目の話ではないにせよ、いい脳神経外科か眼科でも紹介してあげようかと思う。

 

先日、大学卒業を控えた大学生たちに飯代をしれっと奢ってあげた。恩送りとして。

かっこいいとかそういう話になったが、正直に言うとパクった。使い回した。それだけの話なので別に何もかっこよくはないのだ。

 

そもそも、奢ったこと(かっこつけたこと)がバレてる時点でただのダサい話なのである。かっこつけてることが世に一切バレない領域でかっこつけるのがかっこいいのだ。つまり、誰にもかっこいいと言われないのがかっこいいのだ。失策。

 

なお、“恩送り”とは受けた恩を本人に返すのではなく、別の人に送るという意味で、個人的に恩を送る対象として出来るだけ一個でも下の世代に送ることと決めている。

 

社会人になって仕事にも慣れ、それなりの立場になった頃から、世の中にはかっこいいオトナってそんなに居ないもんなんだなと悟り、前職を辞める頃にはすっかりやさぐれていたのだが、丹波市に引っ越してきてからこの恩送りと称された恩を受けた時は

 

『恩送りてなんやねん素敵やん』

 

と衝撃を受けた。

それまでの人生(特に仕事)において奢られる場面といえば

『奢ったるわ(その代わり~して)』という、“その代わり外交”の一環として代償がつきまとうケースが多かった。

 

よって見返りを求められることが甚だウザく、奢られることは鬱陶しいこと山のフドウで、奢ろうとしてくるのを意地でも奢られないようにするという茶番を演じては疲れだけが余韻として残るのが常だった。

そもそも、見返りを求めたら全然奢っていることになっていなくて、只の等価交換か商談でしかない。

見返りを求めることは全くもってダサいオトナの象徴でナンセンスなもんだということを、体験として掴んでいた。

 

なもんで、如何に見返りを求めず、求めている雰囲気を出さず、さらっと奢れるか。奢ったことすら気づかれないか。そんなことがかっこいいオトナってもんだってなことを考えていた。

 

それを、そのセンスを、しっかりと言葉に落とし、実践する人がいる。しかも何人も。丹波の人はかっこいいオトナが多いなあと率直に思った。即パクった。

これまでもう数え切れない程の恩を受けて。現在進行形でどんどんたまってる。

 

野菜、肉、米、酒、食器、タンス、ベッド、ソファ、本、座布団、工具、コタツ、座卓、本棚、50組程の布団、炊飯器、電子レンジ、トースター、ビールサーバー、掃除機、洗濯機、冷蔵庫、冷凍庫、フライパン、鍋、保温機、照明、卓球台、車、パジャマ、薪割り機、選挙、家etc

もはや恩送り破産しないように生きている。もうほんと破産寸前のところを綱渡りしている日々。

かっこよさというのは、センスなんだと思っている。なもんで、かっこいいオトナになるには、かっこいいオトナや環境に身を置き、磨かれていくことが一番早いと思うね。

 

あと、他にもう一つ丹波で生活してて丹波の人かっこええなと思ったことがある。それは工具。

田舎で生活しているとどうしてもふとした瞬間に、ああプラスドライバーがほしいとか、ああ今六角があればとか、ペンチがとか、メジャーがとか、そういう場面にやばいくらいの確率で出くわす。それはもうほんとドラクエで言えばスライムに遭遇する確率でエンカウントする。

そんな時にほとんどの人が

「ドライバー?あんで」

「六角?ほいっ」

と出てくる。大体車に積んでいるのだ。それはもう工具がどう関係しているのかわからない職種の人でも積んでる。

 

『なんでそんなサッと工具でてくんねんかっこよろしいやん』

 

と思った瞬間にパクっている。それ以来ずっと積んでいる。

先日、中学か高校かの時にもらったvictorinox(いわゆる十徳ナイフ)のハサミがついに天に召され。

車から離れた時でも最低限の工具を持つ漢になるべく、パワーアップしまくったものに新調。これはやばいでえ、なんでもできるでえ。

 

 

ほんと、かっこいいって何なんでしょうね。別にどうでもよくね?