perfectionism


何かをやろうと考える時、まずやれることから考える。必ず、実現できそうな一手をとりあえずにもとにかく打つ。

そこからしか始まらないし、始められない。
どんだけ夢と言う名の大風呂敷を広げても、最初の一手が打たれなかったら全くもって実現しない。

そこから、その次はこうしよう、こうやって広げていこう、そして1年後くらいにはこうなってたらいいなぁ、ゆくゆくはそうなってたらええな、と広げていく。広がりきったあと、どんつきの無限に広がる可能を整理し、目標物としてみたり、目的としてみたり。

そして、改めて今から繰り出す一歩目はどうあるべきかも考えてみる。
遠い遠い果ての未来から描ける人もいるが、俺の場合は上記のような広げ方で方向性を見出していくケースが大半。

現実味のない空想世界は、今この生きている瞬間にはいらんから。
いつも口ばっかりで、ええことばっかゆうけど全くもって自分では動かない理想論者な人が世の中には沢山いる。

そういった風呂敷野郎は、当たり障りのない立ち位置で関わっている場合はなんともないが、当たり障りありまくる立ち位置で関わる場合は心底うざかったりする。ゆうだけゆって、自分では一切やらないことがうざいということになる関係としては、会社の上下関係下であったり、取引先であったり、家庭であったり、彼氏彼女であったり。

そういう存在がいて、プンスカプンスカしてるやつを見ていると、ほっといたらええやんと思ったりもする。

ほっといたら余計めんどくさいことになるやんけ!と言うかもしれないけど、それでもほっといたらいいと思う。

ほっとく、というのは、受け取るだけ受け取って、真摯に取り扱わないという意味で。

その理想論に乗り甲斐があるなら乗ればいいし、乗り甲斐がないならのらなかったらいい。
乗らなかってやんややんやゆわれるなら、乗ってるフリしたらいい。乗ってるフリがバレそうなら乗ってあげつつ自分の都合のいい方向にもっていったらいい。

俺の場合、風呂敷野郎を見かける度に、ああはなるまいと反面教師的に受け取っているので、自分としては何より動きたいし自分も何かやりたい側というか、そういう生き方がしたいんだと思う。

そう、生き方の違いだと思ってる。
どう生きるか?

もし仮に、風呂敷野郎になりたくて口先だけで生きていきたいのなら、ちゃんと周囲が乗りやすいような環境を与えてあげて動きやすくしてあげたらいい。こちらのゆった通りに動くことが何より心地よくて気持ちよくて生きていきやすいって思ってもらえるような絵を描けばいい。

だから、口先だけの人生でも、実働しまくりの人生でも、どっちもそれはそれでいいと思ってる。生き方の、スタンスの違い。

もし仮に、ゆうこと聞かなくてプンスカプンスカしてる人は、自分のゆってる事が周囲にとって乗りにくさMAXになってないか考えればいい。

もし仮に、ゆうことなすことめちゃくちゃなやつに振り回されてプンスカプンスカしてる人は、乗れないのに乗ろうとしてないか、乗り切れるだけの能力もないのに乗り切ろうとしてないか考えればいい。

かつてのツレの、飲みの席で飛び出した格言が好きで、ある種の信条になっているものがいくつかある。
そのうちの一つ。

“人生、やるかやらんかや。

やらんなら、

乗るか反るかしかない。”

全くもってその通りで、自分でやらんなら、人の話に乗るか反るかしかない。

自分がやる側の人なら、やり切るように必死のパッチになればいい。

自分がやらずに乗る側の人なら、とにもかくにも乗りながらどう自分にとって居心地のいい場所を確保するか、その為にどういう能力を身につけるかを考えて動けばいい。

自分で何事かを為すこともなく、人が成そうとしている事にも乗らない選択肢をとりたいなら、どっかの玉の輿だかヒモだかになればいいと思う。

こないだ街中の店でご飯食べてる時、隣の人らが退職金もらえるのかなあ?という話で持ちきりだったが、それは考えても無駄な話だと思う。出すか出さないか決めれる側にいないから。

好きなん選らんだらええんちゃうかな。

自分にとってその選択が一番気持ちよくて心地いいってやつで。
人の生き様にあーだこーだケチつけるのは、なんかどうかと思う。

好きなようにやりーな。俺も好きなようにやるし。お互いうまいことやろうや。
ってくらいが、ちょうどいい。

俺は完璧主義者だ。
完璧にしたいといつも思ってる。

でも、やる前から70点しかとれないことがわかる時がある。完璧主義やから、やる前からテンションが下がる。
でも、意地でも、最低でも70点は譲らない。完璧主義者やから。

大体の事は、完璧に満たない結果で終わる。大体の事は、完璧にできなくて大体凹む。その満たされなさが、次の行動を生む。完璧主義やから、次で満点をとろうと思う。

何もしなかったら、完璧な結果が手に入る事は絶対にないことをわかっている。完璧が欲しいから、とにかくやる。満点に満たないことになることがわかってても。基本的にどこまでも諦めが悪い。完璧主義者なもので。俺の諦めの悪さはこの辺からきてる。

この極度な、自分との戦闘モードのスイッチが入ってる時、グッと何かが伸びていく感覚があり、脳内麻薬のような謎の快感に近いものがありわかってても止まらなくなり自分で制御がきかなくなる。

もっとスマートにできたらいいのになあといつも思う。器用にこなしていける人が羨ましく思う。特定の誰でもない謎の完璧な人物像を追いかけ求めている。

完璧にできたら何が手に入るのか?と思うが、なんなんやろなぁ。満足感とか達成感とかかな。
結果的に、そんな瞬間は数える程しかない。それよりも、日々終わる時に今日もやれるだけやったったっていうその感覚が何よりの動機になっている気がする。

現実世界の全くもって完璧じゃない日々に闘いを挑みまくり、それでもほぼほぼ完璧にいかない事ばかりで一人で勝手に疲れてきて何やってんやろ?アホらしってなるかならないかってタイミングで、なんでか勝手にそうなってる事に気付いて声かけてくれてその辺で一回止まっとけよって制御かけてくれる存在がここ数年居てくれていることに、とてもとても感謝している。
監視カメラでもついてんのかなって思う。