成功恐怖


朝一番から丹波市の移住相談窓口に関する行政との定例会議。
今、ざっくりと考えているこの一年間の実績と事実から読み取れる傾向と対策、今後数年先まで見越した世の中の流れの中でどういう立ち位置を築くか、またその中で来年度は何をすべきかといったところをご報告。

公の仕事というのは、一切手抜きをしたくない。
なんといっても公金を使ってるから。誰に対しても“何か文句あんのか”って言えるだけのフルスイングで臨みたい。
逆に、フルスイングできないならバッターボックスに立たない。そのつもりでいる。

バッターボックスに立った段階で、フルスイングする気になれないなら、もはやバッターボックスに立つ必要がないのだ。
フルスイングする為の企画を。できそうにないならやらない。その心づもりは変える気はさらさらない。

自分だけの話なら、やってもやらんくても何があっても自分のことやから、手抜きたい時は手抜いたらええと思うけど、やっぱそうはいかないしね。どうせやるなら、フルスイング。

昼からは宮崎からゲストが来るということで春日町の三心五観へ。けっこう久しぶり。

三心五観
http://www.3shin5kan.com/

無農薬、無化学肥料、自然栽培に徹底したこだわり尽くした野菜と米。おいしゅうございました。

その後柏原町のma-noへ移動。

ma-no
http://cafe-ma-no.com/

ここで色んな話をした。最後、話が中途半端に途切れたところで終わったので、ここでちょっと書こう。

俗にいう、成功恐怖(症)について。心理学的な解説はどうでもいいとして、そういうのがあります。

人間、失敗したくない生き物である。失敗することを恐れる。リスクを取りながらない。リスクを背負うことがリスクだと思っているから。
近年、ほんと世間を騒がすNEWSがまじしょーもなさすぎてなんかもう笑えるが、失敗することを忌み嫌い、避けてるやつが失敗したやつをほれみたことかと高笑いしている構図はどこのむっつり野郎なんだと傍から見てて思ってしまう。

失敗も成功も、元はたった一つの“事実”でしかない。
それを、失敗と捉えるか、成功と捉えるかはその人次第であるもの。解釈というのは無限に出来うるもの。

逆に、人間、成功したいと憧れる生き物である。成功したい、うまいこといけばいいのにと願う。うまいこといくようにと一生懸命頑張る。
しかし、ある一定のところまでやって、あと一歩、足を進めれば当初から願っていた“成功”というのが手に入るというところまできた際に、なぜか急に足をとめてしまったり、なぜか立ち止まって考えようとかいってみたり、なぜか急に過去の思い出に浸りはじめたり、なぜか目前に迫った“成功”を手にすることが一体はたしてどうなのか?本当に意味があるのか?等という思いに駆られたりすることがある。

成功することに恐怖を感じる。
果たしてそんなやつがいるのか?と、思う方もいらっしゃるかもしれないが、います。それもまあまあいます。これまで接してきた人の中での体感値です。まあまあいます。

この成功恐怖、恐怖という絵に描いたような恐怖ではないので、実際に成功恐怖に駆られている人はそんな対して恐怖感という恐怖感はないので、あまり実感として体感として、足がすくむとかいった物理的な症状が出てこない限りなかなかとらえにくいかもしれないが、あと一歩のところでなぜか立ち止まってしまうとか、なぜか考えるのをやめてしまうとか、なぜか直前で全然違うことを考えてしまうとか、もう向こうが手を差し伸べているのになぜか手を伸ばせないでいたということはないだろうか?

めっちゃ仕事頑張りました。給料あげてもらうために死ぬほど頑張りました。
頑張りまくったおかげで、来年度の給料の話になった時、上司はこういいました。

『よくやってくれた。おかげで会社は過去最高の利益を叩き出したよ。来年度、おまえの給料をあげようと思う。なんぼでもいいぞ。好きな金額をゆってくれ』

こういわれた時、あなたならなんぼと言えるか?
躊躇することなくじゃあ10億くださいとか言えるか?

給料あげてもらうために頑張ってきたから、そりゃもう青天井であがればいいのにと思ってやってきた。
しかし、実際青天井の提示がきたのに、なぜか会社の利益額やら、他の人との比較やら、自分の給料額やら、色んな謎の勘定をはじきだして、ものすごく無難な提示をしてしまう。これは典型的な例。

優勝して一番をとるために頑張ってきた。でも、なぜか毎回、結果として3位にしかならない。前評判ではもはや優勝間違いなしと周囲からも太鼓判をおされまくっているのに、なぜか3位にしかならない。予定調和のようにここぞというところで予定調和のように失敗しいつも3位になる。

好きな相手がいました。順調に交際を重ね、もう相手も完全にこっちのことが好きだろうという実感もある。もうあとは告白するだけ。あとはきっかけだけ。しかし、いつまでたっても切り出せない。切り出せないまま時間が過ぎ、なぜか全然意中になかった人から告白され、なぜかそっちと付き合ってしまった。あれだけ好きだったのに。あれだけお互いいい感じだったのに。

そんなこんな、色んな場面ででてくる、この成功恐怖。

良くも悪くも、このパラダイムは個人的な所感でいえば、日本人の古き良き概念という側面もあるので、一概にダメなものとは思っていなくて、ただ、これのおかげでいつもうまくいかないんだとか、いつもあとちょっとのところでダメになるんだとか、そういう人や場面に遭遇すれば、目の前に飛んできてなんとかしてあげられそうだなと思えば、なんとかしてあげたくなるもの。
もちろん、俺自身にもある。でも、もうちゃんと掴んでいるつもり。でてきたときに、あ、でてきたってわかる。その枠に囲われている自分を掴む。そこから、枠に囲われたまんまにしとくか、抜けるか。それを選べるようにできる。

抜け出すのにいくつか要素があると感じているが、それはあまり言葉でどうこう言ったところで違った掴み方をされるのも困るので、興味があれば会った時にでもこそっとお話くださいませ。

まずは、そういうのがあるんじゃないかということを、自分で掴むところから。