時間
昨日今日と、半日と丸一日、隣保の方のお通夜とお葬式に。
こういうのは隣保葬とでもいうのか、一昔前、葬儀の会館がなかったころはこうして一から十まで村の人が段取りして用意してってやってたってのは、そんだけ村に人が居たからだろうか。
会館ができて、どんどん頼む人が増えてきて。それだけ手間の負担の方がしんどくなってきた証拠なのかもしれない。
ただ、こんだけの時間を隣保の人達みんなとって、故人のエピソードを話し、昔話に華を咲かせることを“通じて”、
あえてそうすることで普段落ち着いて話せないことを話し、普段聞けないことを聞き、また、知らなかった故人の一面であったり、言動をみんなで共有することで、天に昇った後でも、余すことなくまた色んな教えをいただくことができる。
どんだけ手間がかかっても、時間がとられても、大変であっても、あえてそれをやることで、あえてこうした時間をとることで、また一つ、村の縁が強くなる。故人への、感謝の気持ちもそう。
隣の集落にいけばまた違う慣習があり、同じ集落内でも違うこともある。やり方は違えど、葬儀の一連の仕組みは、本当によくできた仕組みだと思う。遺された家族が四十九日あたりまで考える暇もなく何かと忙しく“させてある”こともそう。
“あえて時間をかけること”で、少しずつ、突然のことで整理もできない頭の中を整理させていく。
これから色んなものが淘汰され、省かれ、縮小していく。それでも、大事にしておきたい物事があり、進めるか止めるか等の決断事も増えていくんやろう。
この一年弱やったけど、うちの子も遊んでもらったし、毎月顔合わせて、時に草刈りとかして、なんやかんやとお世話になったなぁ。
優しくて、素敵なおいちゃんでした。ありがとうございました。