これからの自治体のあるべき姿


昨夜はみんなの家がある方の山南町南中での最後の役員の集い。

思いがけない感じで役員(隣保長、人権学習委員、災害時の給仕委員)になった2年前。本当は村入りして、よそから来た身の自分が住み始めてたかだか2年くらいでいきなり役員になるなんていうことはまあめったにない事例だったと思う。でも、思いがけないスタートではあったけど、これはやってみることができて本当によかったと、今になって強く思う。

なぜなら、村のことを深く理解することができたから。
もちろん、たかが2年で全てが把握できるだけの物事があったかと言われれば、ずっと住んでいる人からすればたかが知れてる。でも、知るきっかけとしてはこの上ない機会だった。本当に有難かったなあと思っている。

今朝は午前中、消防団訓練。
地区内に仮想の火点を設け、実際に消防車両で出動して水を出すというもの。現在の体制での、最後の集まり。
現在の団員含め、班長、部長には自分としては消防団としてだけではなく、もっと色んな側面からもお世話になったなあと思っていて、とても感謝している。今年度はかつてないでかさの火災があった。それもよりによって自分の村、そして隣保。おまけに第一通報するという機会となり。貴重な経験値を積ませてもらった。

先日の熊本出張でのシンポジウムで講演するにあたり、これまでの4年間の活動をかつてない細かさで振り返る機会となった。

これまで自分たちがやってきたこと、触れ合ってきた人達から聞いたこと・一緒にやったこと・考えたこと。
ここ二年間で急激に増えてきているよそからの視察受け入れや、出向いて行って話をする機会。

全てをひっくるめて、今、感じていることは、

“これまで関わってきたどこの地域も同じような課題を抱えている”ということ。そして、
“これまでやってきたことが通じない世の中が目前に差し迫ってきている”ということ。その中で、
“これからの自分たちの地域を担う人がいない”ことを危惧していること。

ここから語弊を恐れずに言おう。

今、地域の自治体を支えているのはちょうど、自分の親世代が中心。今を生きる60~70代。親世代は生まれた時からずっとこの地域で育ち、じいちゃん世代がずっと当たり前にやっていたことを目にして育ち、物心ついたときからずっとそうしてきた延長線上に生きている。それは、人だけでなく、自治体の仕組み(規則や暗黙の了解で行ってきている風習含む)もそう。

こうした、およそ団塊の世代と呼ばれる子供世代である我々が生まれる頃から、時代が急速に変化した。しすぎた。
このまま続くと思われたバブルははじけ、阪神大震災が起き、ITバブルもはじけ、東北の震災が起き、原発が事故を起こし、もはや誰も今後どうすればうまくいくのかなんていう未来予測がたたなくなった。

最近テレビのCMでやってた、もはや今を生きる高校生以下の子供らはほとんどがスマホを当たり前のように持ち、持っていないと仲間外れにされてしまうほどの勢いでスマホと共に生きている。我々世代でさえも、中学生くらいまではドキドキハラハラしながら彼女宅の家に電話せざるを得なかったのに、今じゃ電話番号すら教えあうことなくLINEで一発で待ち合わせできてしまう。その昔、友達と遊びにいく約束をして、どちらかが寝坊とかしてめんどくさくなって行くのやめてしまったらもう相手は一日中無駄に待ちぼうけるかしか選択肢がなかったのに。訳わからん分厚さの辞書をカバンにつめる必要もない、わからないことがあれば即座に調べることができる、夏休みの宿題なんかテレビで流れてくる情報でしか真新しい研究なんてしようがなかった時代を生きてきたのに、もはや今を生きる子供の夏休みの研究なんてネットで検索した結果ばかりというのが世の常になっている。

“これから先、世の中がどうなるかわからない。だから、これからを生きる子供らにはできるだけ本人の好きなように、好きなところでうまいこと生きていってもらいたい”

多くの親がそう願っている。その結果、確かに生まれた故郷を離れ、世界へ飛び立つ人もいれば、都市部に移り住んでいる人もいる。これは、親がそう願っている結果、確実にそうなった。

今、地方では担い手がいないとか、人材不足とか、社会課題が山積みとか言っているが、それは結局、親世代の望みどおりにした結果、副産物的にそうなっている。

子供たちのこと>地域のこと

だからだ。地域の人である前に、一つの家庭の親だからだ。親としては、望みどおりの結果になっている。人口減少は結局のところ困っているのは行政だけ。市民はそうなることをよしとしていた訳だから。

もしこれが逆で、地域のことを優先していたらどうなっていたか?を考えると、人手不足を考慮して地元を一歩も出さなかったら今頃丹波市民はすべからく誰も大学にいくこともなく、よその全国的に名前の知れた大企業に勤めることなく、ずっとこの地域に生きていることになる。

今の状況は、誰かが望んだ結果。
今のこの地域の状況は、地域の担い手、つまり親世代が望んだ結果。こうなっている。

だから、人口減少も、少子高齢化も、森林過剰も、耕作放棄地の増加も、事業者の担い手不足も、なるべくしてそうなっている。

こうした今、結局、つまるところ何が根本的な原因になっているか?というと、様々な“仕組み”が現代にうまくかみ合っていないことが問題であると思っている。

例えば自治体だと、今自治体を動かしているのは“世帯主”。世帯主=各家庭の男性陣における最年長者。
最年長者だから、先述の通り今を生きる60~70代の男性。必然的に60~70代の意見が自治体に反映される。“自治会=世帯主の集まり”とされている為に、若い人の意見を取り入れたいと思っていても、取り入れるには若い世代が世帯主にならないといけない。若い人を世帯主にすると、小さな子供がいようが、収入がどんだけ必要な状況だろうが、自治会費を払わなければならなくなり、日役にも出役しなくてはいけなくなる。それを親心としては避けたい。だから世代交代しない。でもそうするから若い人の意見が自治体に反映されない。代替わりしないから年々世帯主が高齢化してきて草刈り等の日役が年々きつくなっていく、でも担い手がいない。よそからポッと引っ越してきたばかりの人が仮に若い世代だったとしても同じ世帯主として自分たちがどんだけ大変で無意味だと思っていても『これは世帯主ならやってもらわないと困る』と言わざるを得ない。

今の自治体がこの問題を解決しようと思えば、世帯主だけの集まりじゃなくするか、最終決定がたとえ世帯主のままであってもその決定までの過程で若い世代の意見をひろいあげる仕組みや制度を新たに創るか手を打たなければいけない。これまでやってきたことがもうにっちもさっちもいかなくなっているのなら、これまでやってきたことに違いを創らなければいけない。

今をいきる地域住民の、“仕事”と“私事”の都合を叶える仕組みに変えていかなければいけない。今の制度や仕組みの大半が“余計なお荷物”“無意味なボランティア仕事”と化している。

現在にうまくマッチしていない過去からの“仕組み”が原因で、まるで“人”が原因のように見えている。
人間は環境にとても左右される動物なので、環境のおかげでいい人にも悪い人にもなる。

地域で今を生きる住民にとって、都合のいい、やりやすく、生きていきやすい仕組みに変えていかなきゃいけない。

『空気を吸うように、自然に普通に暮らしている中で勝手に地域の為になっている』というくらいが、自治体のあるべき姿だと思っている。

『何の意味があってこれやらなあかんねん』と思っているなら、やらないか別のやり方に変える。
『もうこのままやったらいずれ崩壊する』ってわかってるなら、崩壊しないような手立てを打つ。

これまでに違いを創るべきタイミングが、訪れているなう。
ここから先は、これまでに違いを創る気がある人だけと、取り組んでいく所存であります。

俺も、自分の子供には好きなように生きていってほしいと思っている。気持ちよく生きていける場所がよその土地だというのなら別に丹波市じゃなくて全然構わない。日本に限らず世界中を飛んでいったらいいと思う。広い視野に生きてほしいと願っている。

そうなっても、俺自身が丹波市に住んでいくなら、丹波市をそれでもうまく回る地域にしたい。
これを実現しようと思ったら、必然的によそから引っ越してくる人をもっと柔軟に地域が受け入れていかないといけない。今の自治体をそのままにしていると色んなツケが回ってくることが目に見えているから手を打っていく。

まあなんか、よくわからんくなってきたけど、やれることをやりましょうってことで。