田舎生活に必須の薪割り授業
今月に入って丹波市へ移住してきた子が遊びにきたので、とりあえず薪割りがしたいというので薪割りをしてもらうことに。
薪割りはとても単純な作業のように見える。しかし、薪割り一つで木のこと、山のこと、自然のこと、田舎のことが全てわかってしまう、とてもあなどれない作業。逆に、薪割り一つでその世界観がつかみ取れない人は田舎生活には現時点でむいてないことを断言できる。
台の上に丸太を一個乗せる。
たかがこの丸太が案外重い。軽く20~30kgはある。元々の木を想像する。この丸太ごときでこの重さなら、一本の木というのは一体何トンあるか。目に見える木のほとんどが人間一人の力では運べないことが簡単に想像がつく。
周辺の家を見てみる。田舎は大体が木でできている。じゃあ家は一体何トンあるのか?
その床は、その云何トンの家を支え続けている。逆に、その重さに耐えうる床でなかったらとっくに地面にめり込んでいる。でも、めり込んでいない。ということは、その重さが耐えられるように設計されている。
じゃあそのあたりの道路はどうだろうか。
乗用車よりもはるかに重たいトラックが何トンもの荷物を積んでガンガン走っている。構造というのは、人為的に創られたものは大半がちゃんと計算されてできている。もし、まだ未開の場所に何かを立てようとするなら、そういった物理的な構造や加重を計算しておかなければいけないという当たり前の物事をちゃんと考えておかないといけない。
丸太は上から斧を振り下ろせばいとも簡単に割れる。でも、杉は簡単だが栗はどうだろうかと思うと固くてなかなかそうはいかない。木は種類によって固さも繊維質も全然違うことは斧を振り下ろしてみればわかる。
じゃあ同じようにチェーンソーを上からおろすとどうなるだろうか?
チェーンソーの方がいとも簡単に寸断できそうなもんであるが、これが意外にもそうはいかない。なぜだろうかとよく考えてみると、繊維の方向は今重力に対して水平に縦に並んでいる。イメージとしては歯ブラシの毛先を一カ所に束ねたようになっている。そこにチェーンソーを振り下ろしている状況に近い。チェーンソー自体もよくよく見てみると歯が何個もついていて、真っ二つに寸断するというよりは一定の狭い幅を削り取るカンナの構造になっている。包丁のように真っ二つにする道具ではないのだ。だから意外にもチェーンソーでは縦にわりにくいのだ。繊維を分断するのには向いている。こういうのは構造をちゃんと把握しないとわかりにくい。でも考えてみればすぐわかる。でも、意外とこれまで培ってきた偏見や固定概念によって考えが及ばないこともある。
薪割り一つから広大な世界観まで見えてくる。田舎暮らしの最初にこういった世界観がつかめないとなかなか田舎暮らしは難しい。結局、街中みたいになんでも用意されてないからだ。地面でさえもそう。舗装されていない道路を見つけることが都会では逆に難しい。なので、本当に何にもたってない地面の上で何かする、何かをおく、何かをたてるといった行為一つの土台さえ、自分で用意していく必要がある。ただ、それさえ用意できれば何でもできる。色んなものがあまってるから。全部、それを創っていく。それが楽しいと思える人にとっては、田舎は楽しいところなのだ。万人に優しくないところなのである。
たかが薪割り。されど薪割り。田舎の必修授業にしてもいいんじゃないかと、思っている。