生の時間


村の隣保の葬式となると、大体一日目は昼過ぎから集まり、通夜の準備をし、通夜をし、翌日は朝から色々準備をして、昼から会館で葬式を行い、親族が納骨等に行ってる間に村では六地蔵に参り、そして夜は隣保だけでお経を唱え、二週間後あたりの夜に二逮夜で今度は集落全体でお経を唱えるという流れ。

自分以外の村の人達からすれば、こうした一連の流れの中で故人との思い出だったり、色んな気持ちを整理したりする時間になっているんだと思うが、数年前によそからポンと入ってきた自分としてはこうしたプロセスの中で、“故人は一体どんな人だったのか”を知る機会となっている。

今自分が35歳。常に村のなんやらで一緒に活動する村の各世帯主さんたちというのは自分の親世代ということになるので、大体60~70歳。なのでこの年齢の中で今この世を去るタイミングというのは、今の世帯主さんたちの親、つまり自分にとってはじいちゃんばあちゃん世代にあたる人が多い。なもんで、普段からあまり関わりがなく、人となりがわからない人物が多い為、先述の意味で自分にとってはどんな人だったのか?を知る貴重な機会となっている。逆に、こういう場合にしか、知る機会がない。

本当ならばもっと生きてる間に関わって、色んな話なんかも直接聞けるにこしたことはないんだが、生きている間というのはどうしても、いつまでも時間が向こうにあると錯覚してしまうし、日々色んなものに追われているが為になかなか時間も機会もつくれないというのも正直なところ。もし仮にずっと後世にまで受け継いでいきたい人物伝やら、伝承やら、行事やらがあるのであれば、いつどのタイミングでふっと途切れてしまうかわからないから、何か村の決め事等、各世帯、各人の気持ちにゆだねることなく大きな括りでこれは受け継いでいこう、そのためにこういう機会を設けよう等ちゃんと動いておかないとどんどん途切れていってしまうんじゃないかと思う。自分もいつこの世を去るかわからんしなって笑って話せる間にしか死ぬ準備はできない。元気な間がやっぱり重要だなと。

世界恐慌が起ころうが、戦争が起ころうが、AIが出現しようが、何をどうしたって皆いつか確実に死ぬことだけは決まってる。生きてる間が大事や。