集金常会という仕組み


夜は一年に一回のペースで回ってくる、組の集金常会@我が家。

集金常会は月に一回行われ、うちの組は全部で12世帯だから、年に一回のペースで回ってくるということに。集金常会のおかげで部屋が片付く。

このご時世、このように自宅が集金常会会場になるケースがもう、この丹波市内でも減ってきているそうで。そりゃそうやなっていう感じもする。集金なんて別に予め一年一括で支払ってしまえば集まる必要もないし、毎月でも別に口座振込してしまえば集まる必要もない。お金のやりとりだけなら、もうやる必要性を見いだすことの方が難しい。

集金に合わせて共有すべき情報があれば共有する、というようなことももはやこのご時世、年配の人でももうかなりの割合でスマホをもっているのでLINEでバシッと送ってしまえば事足りてしまう。これはこれまでアナログの有線放送とかも代替できてしまいそう。

仕事が夜の人だっているし、毎回こうして出られるかわからないっていう人もいる。

色んなことを、合理的に考えると、ほとんどの場合でもうやらんでよくない?という結論になりそう。だからこそ、この集金常会という機会そのものがあちこちで消滅してるのもわかる。

ただ、個人的には割とこの集金常会という機会は割と好きだ。
村の人達とこうして月に一度、必ず顔を合わせる機会があることで例えば村のことで何かわからないことがあった場合に集金常会の時に聞いてみようということができたりもするし、月に一度お互い顔を合わせていることで万が一のことがあった際の予防になっている気もするし、何より理屈ではない安心感とかそういったものもある。

お金を集めるだけなら、もう今の仕組みじゃなくても全然構わない。
ただ、集金常会という仕組みを通じて得られている恩恵があるのもわかる。だから、今後どうしていくか?を考える際には、一体各自がこの仕組みのどこにメリットや有意義さを感じているかを見極めて、それが最大限えられかつ苦にならない形でまわせるか?なんだと思う。

今すぐ集金常会がなくなるとしたら、それは寂しいだけじゃない気がするから、何か遺しておかないといけないものがあるんだと、個人的には思っている。