成長の土台


個人的に、田舎に暮らしていて当初からずっと最も不安なことは

“自分で自分を伸ばす気持ちがなくなった瞬間から老害一直線であること”

 

根本的に人口が少なく、色んな場面で人手が足りていないこともあり、他の人を蹴落としてまで上り詰めていくなんていう発想になる環境がない。

企業の数も相対的に少なく、当然競合他社も少ない上にむしろ皆で手を取り合って協力していこうという風潮が強い為、企業として生きるか死ぬかという戦いをしあって磨かれていくという感覚は皆無に等しい。

 

語弊を恐れずに一言にまとめると、

“街中のそれと比べて、超がつくほどヌルい”

だから、他の人がどうとか他社がどうとかではなく、自分が自社が伸びていく、日本中で、世界中で通用する為にとか、世界の同年代に負けないようにとか、自身で自身の伸びていく環境を用意しない限りそこで終わり。ほぼ100%そういった環境は外部要因からは用意されない。

生まれてから死ぬまでの間、成長曲線は伸びていく意思が失われた瞬間がピーク、そこから死ぬまで伸びることがない。その時までに出来ること、やれることを死ぬまでやって人生が終了。

『できることだけやってたらそれでいいんだよ』なんていう台詞をかけられるというのは、自分にとっては社会的に存在する価値がないと言われているのと同じといった感覚がどうしてもある。突き放されたように受け取ってしまう。

 

社会人になって一社目で、ほぼその人の社会人としての素養が決まってしまうとはよく言われるが、社名を名乗っただけでブチ切れられる会社に6年半いた自分としては、社会人の当初からずっと襲われ続けてきた強迫観念でもある。

“自分は世間一般的にできる人の部類に入るのか否か”

“名前のある大企業に勤めている人らに負けてない自分であるのか否か”

“世界中の同年代に比べ自分はやれる人であるのか否か”

自分は特段何者でもないし、これといって夢ややりたいことがある訳でもないということもこの、強迫観念に一役買っている。人生をかけてやりたいこともないし、出来ることもないという状態は、個人的にはそれは社会的な存在意義が限りなくないに等しいと思い続けてきた背景がある。

これはあくまでも個人的な考えであって、他の誰にも強要するものではないが、やはり丹波で暮らし、丹波の人を基本的な商売の相手とし、丹波の人としか基本的にしない状況が続くと、どうしてもどんどん不安になってくる。自分がどれだけ井の中の蛙になっているかさえも判断できない。

 

特にこの1,2年。意図的に外への出張等を減らし、むしろ中に居続けてみることを選択してきた訳だが、やっぱりこの状況は精神衛生上、非常によろしくないと強く思い始めてきた。

これは子どもの生活環境でも間違いなく同じ事が言えるので、例えば高校卒業までの間、うちの子どもと同年代の子どもがいる外の知り合いとまとまった休みに一緒に遊んで友達をつくり、定期的に遊ぶようにし、こっちが遊びにいったり向こうが遊びにきたりしながら子ども同士が直接連絡をつけられるような環境を用意し、自分の住んでる地域以外のところで同年代の友達を作っておくとか、結構大切な気がしますなあ。

 

 

今後、もっと外との交流を増やしていきたいなと。まずはゆるっと、ぬるっとでも。